一雫ライオン『二人の嘘』から目が離せない!

文=北上次郎

  • 百間、まだ死なざるや-内田百間伝 (単行本)
  • 『百間、まだ死なざるや-内田百間伝 (単行本)』
    山本 一生
    中央公論新社
    3,960円(税込)
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  • 挑発する少女小説 (河出新書)
  • 『挑発する少女小説 (河出新書)』
    斎藤美奈子
    河出書房新社
    946円(税込)
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  • 俺達の日常にはバッセンが足りない
  • 『俺達の日常にはバッセンが足りない』
    三羽 省吾
    双葉社
    1,980円(税込)
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 不穏な小説だ。水面下になにかが潜んでいて、それが音もなく蠢いていて、いつか爆発してきそうな、そんな気配がある。だから、目が離せない。一雫ライオン『二人の嘘』(幻冬舎)だ。

 ヒロインの片陵礼子は、東京地方裁判所の裁判官である。東大法学部在学中に、司法試験にトップ合格。近い将来に、女性最年少で最高裁判所判事になると言われている逸材だ。しかも写真家が「何百人も女優を撮ってきたけど、いや─あの人は綺麗だ」と感嘆するほどの美貌の持ち主。夫の貴志は弁護士で、裁判官をしていた義父と、検察官をしていた義母が建ててくれた一軒家に住んでいる。

 ある日、旧知の判事から、礼子が判決文を書いた裁判の被告が、毎朝八時、地裁の門のところに立っている、と聞かされる。それを「門前の人」と言うらしい。自分に不当な判決を下した裁判官の実名を挙げ糾弾する人種のことだ。

 気になったので、朝早く門のところに行くと、男が立っている。記憶をたどって思い出す。時計技師の蛭間だ。裁いたのは十年前。店の金五万円を盗み、経営者である被害者と口論。もみ合った結果、経営者を刺殺。三時間後に自首してきたという事件だ。結局、蛭間は四年の実刑となり、服役。資料を読み返しても、間違っていないと思う。その間を縫って、裁判の仕組みが紹介され(これは同時に、裁判官の日々の生活の紹介にもなっている)、夫や所長にも何の感情を持たないヒロインの性格が語られていく。「あんたが人間に興味持つなんて珍しいじゃない」と司法修習生時代の同期に言われるくだりもある。そこまでにもすでに不穏な雰囲気は漂っているのだが、決定的なのは、このヒロインは八歳のときに実母が失踪し、それからは伯母に育ててもらうのだが、その伯母に「なにかあるのかい?」と言われたときの、自分の親指の爪がぎざぎざと噛まれ、歪になっている光景のアップ。なんだこれは? 何一つ不自由のない生活に見えるけれど、何かがあるということだ。しかしこの段階では何も語られない。いや、すでに語られてはいるのだが、すべてがまだ水面下に隠されている。

 紹介はここまでにしておく。この小説に対する批判は容易に想像できる。たしかに、幾つかの面で気になる箇所はある。完璧な小説だ、と私も主張するつもりはない。しかし、そういう欠点を超えて迫ってくるものがある。

 たとえば、八歳の夏、ご飯食べにいこうと言われ、母親と焼きとん屋にいった夜の回想がある。最初は、このまま捨てられるのでは、と緊張していたが、その様子もないので安心して店を出た。真っ赤なワンピースを着た母親の背中を見ながら歩いていて、母親が角を曲がったそのとき、なんだか胸騒ぎがして走った。ところが、角を曲がったところに母親の姿はない。そのときの礼子の述懐を引く。

「距離を考えると、あの人は角を曲がったあと、全速力で走ったのだと思う」
 こういうディテールがいい。この物語が胸に残るのは、幾つもの鮮やかな点景が、読み終えたあとに蘇ってくるからだ。ヒロインの比類ない孤独が胸を打つからだ。一雫ライオンは演劇映画で活躍している人で、小説はまだ四作目。前三作を急いで買ってきて、これから読むところである。

 今月は他にも、新解釈で鄭成功の生涯を描く川越宗一『海神の子』(文藝春秋)から始まって、夢枕獏『JAGAE』(祥伝社)、豊臣の残党が先にシャムにいて、あとから行った徳川方の山田長政と対する構図が興味深い幡大介『シャムのサムライ 山田長政』(実業之日本社)、広島の鉄板焼き屋で食べる「うにクレソン」が美味しそうな原田ひ香『ランチ酒 今日もまんぷく』(祥伝社)と面白本は数々あるのだが、残りスペースが少ないので、別の機会にする。

 そうか、内田百閒伝と副題のついた山本一生『百閒、まだ死なざるや』(中央公論新社)と、斎藤美奈子『挑発する少女小説』(河出新書)もあるな。前者は、滋味あふれる「あとがき」が強い印象を残すし(それにしても内田百間が高給取りなのにこれほど借金に苦しんでいたとは知らなかった)、後者は、超刺激的な文芸評論。バーネット『小公女』を始めとする、一九世紀後半から二〇世紀前半に書かれた少女小説が、なぜ世界中で大ヒットしたのか、水面下に隠された本質を読み解くもので、目からウロコが落ちまくり。本当にすごい。しかし二冊ともに短いスペースで紹介できるものではないので別の機会にしたい。

 今月のラストは、三羽省吾『俺達の日常にはバッセンが足りない』(双葉社)。三羽省吾の小説を読むのは久々だ。いま調べたら、二〇一八年の『刑事の血筋』以来、三年ぶりとのこと。こうして新作を読めるのは嬉しい。バッセンとは、バッティングセンターのこと。それが足りないから作ろうとエージが言うのだ。この男は「昔からふざけてばかりいて、授業などまともに受けず、友達を利用して、ときには裏切り、約束を簡単に破り、借りた金を返さず、それほど強くないくせに喧嘩っ早く、どんな仕事をやっても長続きせず、女にだらしがない」男である。評価しているのはシンジの祖父だけだ。

 中学の同級生たちがこのエージの思いつきに巻き込まれていく話だが、予想外の方向に物語がどんどん転がっていくのが快感。個性的なやつが次々に出てきて、それだけでも面白いが、いちばんは、たしかに私たちの生活にはバッティングセンターが必要かもしれない、という気になってくることだ。

(本の雑誌 2021年9月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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