『とにもかくにもごはん』がどかーんと来る!

文=北上次郎

  • 龍の国幻想1 神欺く皇子 (新潮文庫)
  • 『龍の国幻想1 神欺く皇子 (新潮文庫)』
    三川 みり
    新潮社
    781円(税込)
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  • 奇跡の地図を作った男—カナダの測量探検家デイヴィッド・トンプソン
  • 『奇跡の地図を作った男—カナダの測量探検家デイヴィッド・トンプソン』
    下山晃
    大修館書店
    2,640円(税込)
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  • 人狼ヴァグナー
  • 『人狼ヴァグナー』
    ジョージ・W・M・レノルズ,夏来健次
    国書刊行会
    5,280円(税込)
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 冒頭いきなり心を掴まれる。小野寺史宜『とにもかくにもごはん』(講談社)だ。

 子ども食堂を舞台に、そこで働く人、来る人──一〇人の視点で描かれる小説である。冒頭は、この子ども食堂を始めた松井波子四四歳の回想だ。冒頭に出てくる挿話だから、ここに全部書いてしまうが、知りたくない人はこのページを飛ばしてまっすぐに本書を読まれたい。小野寺史宜を信じるのがいい。

 回想は七年前の公園だ。波子は夫の隆大を駅前で見る。声をかけても特に話はないので、黙って歩いていると、夫の隆大が家の直前で右に曲がる。彼が入っていったのは児童公園だ。ベンチに座ってコンビニの袋からビールを取り出して飲むのだ。結婚して一二年、会話がまったくない夫婦だったが、そこまで家に帰りたくないのか。

 問い詰めると、裏のアパートに住む少年とこの児童公園で時々会うんだと夫の隆大が言う。何の話を始めるのか、そのつながりが波子にはわからない。少年はベンチに座ってパンを食べていた。その児童公園で何度も会ううちに話すようになり、事情が少しだけ明らかになっていく。母親から渡されたお金でコンビニでパンを買い、それが少年の夕食のようだった。どうして公園で食べているの、と尋ねると、こっちのほうが明るいから、という返事だった。アパートは電気が止められているので、街灯のある公園のほうが明るいからだという。しばらくすると少年は引っ越していったので、いまは公園で会うこともないと言ったあと、隆大がこう付け加える。

「一度でもいいから、エイシンくんにウチでメシを食わしてやりゃよかったなぁ」
「それは、変でしょ」
「そんなのこっちの自己満足で、何の解決にもならないことはわかってる。だとしても、マイナスにもならないよ」

 その公園の会話をきっかけに夫婦仲が劇的に変化したわけではない。ただ、改善しそうな予感はあった。ところがその五日後、夫の隆大は交通事故で帰らぬ人となる。波子が子ども食堂を開くのはそれから七年後だから、すぐに始めたわけではない。「エイシンくんにウチでメシを食わしてやりゃよかったなぁ」という隆大の言葉が少しずつ波子の中で大きくなっていったのである。

 というのが、波子の章で語られる開設の動機だが、こっちのほうが明るいから、という少年の言葉がずっと残り続ける。私、こういう話はダメだ。心穏やかに読めない。特にラストでふたたび、どかーんと来るので要注意だ。

 三川みり『神欺く皇子』(新潮文庫nex)も面白い。こちらは異世界ファンタジーだが、またかよと言わずに、ぜひ読まれたい。なかなかよく出来ているのだ。

 物語を成立させているさまざまなファクターを説明すると長くなるのですべて省略する。ここでは、物語の冒頭から降り続く殯雨(もがり雨)が、独特の雰囲気を醸しだしていることに留意したい。殯雨とは、崩御した皇尊を弔う雨、ということだが、つまりこの長編はその雨が降りやむまでの物語ということだ。ひらたく言えば、次の王位をめぐる物語である。だから、争いがあり、策略があり、秘密がある。「龍ノ国幻想1」という副題が付けられているが、第2巻は秋に刊行されるとのこと。愉しみなシリーズが始まったものだ。

 下山晃『奇跡の地図を作った男』(大修館書店)は、本筋からずれたところで目がとまった。これは「カナダの測量探検家デイヴィッド・トンプソン」と副題のついた本で、想像を絶する苦難の地図作りと、不遇の半生を描く書だ。この中に、一八二一年にトンプソンが所属していた北西会社がハドソン湾会社に吸収されると、トンプソンが北西会社に残した地図や測量の記録が、ロンドンの著名な王室お付きの地図制作業者アロースミス家に送られ、北米北西部での地道な測量や探査など何ひとつ行わなかったアロースミスの地図がロンドンで大評判になった、との経緯が出てくる箇所がある。本書の後半だ。アロースミスのような狡知を働かせる剽窃漢は古来多くいたと書いたあと、著者は自分の体験をこう続けている。

 ある学術共同研究会で「二五年かけて書いたという君の毛皮史の本、なかなかよかったので、ぼくの新著に利用させていただいたよ。参考文献の名前はいちいち挙げなかったけどね」と国立大学所属の研究者に言われたことがあると言うのだ。凄い話だなあ。

 今月の最後は、ジョージ・W・M・レノルズ『人狼ヴァグナー』(夏来健次訳/国書刊行会)。訳者あとがきによると、レノルズは一九世紀のイギリスで活躍した「煽情的通俗小説の人気作家」で、ディケンズの「ピクウィック・クラブ」の登場人物を堂々と無断借用した模倣作を書いたように(しかもこれが売れちゃったというからディケンズが怒るのも無理はない)、平気で他作からの剽窃行為を繰り返す問題児でもあったようだ。

 本書はそういう作者が書いた人狼小説で、台詞は多いし、テンポはゆっくりだし、重要な登場人物だと思っていても、あっけなく退場するし、一九世紀の小説は独特の雰囲気を持っているが、そういう一九世紀の大衆小説が好きな同好の士にすすめたい。

 九〇歳の老羊飼いが二一歳の若者に変貌してしまう「変身」と引換えに月に一度狼に変貌するのだが(月末の陽が沈むときに荒々しい獣に変貌し、次の日の太陽が昇るまでもとには戻らない)、その変貌シーンが見物。その箇所を引用したいが、長くなるのでぐっと我慢。一九世紀の通俗小説をもっと読みたい。

(本の雑誌 2021年10月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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