どんどん自由になっていく井上荒野『照子と瑠衣』が素敵だ!

文=松井ゆかり

  • 君が手にするはずだった黄金について
  • 『君が手にするはずだった黄金について』
    小川 哲
    新潮社
    1,760円(税込)
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  • あしたの名医:伊豆中周産期センター (新潮文庫 ふ 61-1)
  • 『あしたの名医:伊豆中周産期センター (新潮文庫 ふ 61-1)』
    藤ノ木 優
    新潮社
    880円(税込)
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 長く生きていれば、人間誰でも年老いる。概ねその事実は悲観的に受けとめられるが、井上荒野『照子と瑠衣』(祥伝社)を読めば、「そうとばかりもいえない」と認識を改めることになるのではないか。

 長年夫の横暴さや無神経さに耐えてきた専業主婦の照子。老人マンションでの派閥争いや嫌がらせに我慢の限界を迎えたシャンソン歌手の瑠衣。ふたりは中学時代に出会い、卒業以来初めてのクラス会で再会して親しくなった。その大事な友である瑠衣からのSOSを受け、照子も家を出た。それぞれが置かれていた境遇を飛び出したふたりは、ひなびた温泉街を目指す。

 昔は優等生で現在はいいところの奥様である照子が意外なワイルドさを発揮してとりあえずの生活拠点を確保したり、型破りな瑠衣が実務的なところでうまいこと根回しをしてみせたりと、チームワークも最高。

 さて、主人公たちの名前は往年の名画「テルマ&ルイーズ」からとられたであろうことは、五十代以上の読者や映画ファンならすぐ思い当たるに違いない。果たして照子と瑠衣はどのような結末を迎えるのか、映画の記憶を呼び覚ましながら読み進めるのも一興では。

 加齢によって身体的にも衰えるし、ままならないことも増えてくる年代の主人公たちであるにもかかわらず、物語が進むにつれてむしろどんどん自由になっていくのが素敵だ。全編に満ちた疾走感がたまらない。

 小川哲(著者)と同じ名前を持つ「小川哲」(主人公)のさまざまな経験とそれに関する考察が描かれる連作短編集が、『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)。小川哲という書き手について、私はいずれ国民的作家と呼ばれるようになる存在なのではと考えている。その著者が自分と同姓同名の主人公を登場させ、読者に「これはノンフィクション(もしくは私小説)なのか?」と思わせる物語がおもしろくないわけがない。

 特に印象的だった「偽物」という短編では、「小川哲」が一度顔を合わせたことのある漫画家・ババリュージに、新幹線で声をかけられる。ババは初めて会ったときも今回も、ロレックスのデイトナの偽物を着用しているらしいのだが...。「小川哲」の誠実さとユーモアが絶妙な一編といえよう。

 果たして、小川哲と「小川哲」はどこまでシンクロしているのか。どこまでが虚で、どこまでが実なのか。東大出身で多くの文学賞受賞歴のある作家という輝かしい肩書きを手にしながら、「小川哲」は現実の世界に微妙に順応しきれていないようにみえるところもまた興味深い。たいへん明晰な頭脳を持ち知識も豊富で、本気で就職活動に取り組んでいたらどんな企業にも入社できたのではないかと思うが、選んだのは小説家という道。彼の思考の道筋を追いかけるのは、とても知的好奇心を刺激される読書体験だった。それだけでなく、なかなかのロマンチストであることも読み取れ、微笑ましくもある(恋人に関する記述が随所に見られるうえ、交際を始めるために大胆な策を講じるといった積極性も持ち合わせている模様)。

 小川哲ファンはもちろん必読だし、まだ著作を読んだことのない方にも「小川哲」の魅力に触れていただければと思う。

 藤ノ木優『あしたの名医 伊豆中周産期センター』(新潮文庫)の主人公・北条衛は、腹腔鏡手術を専門としている医師。東京の本院から最も遠い関連病院である天渓大学医学部附属伊豆中央病院(通称『伊豆中』)に異動してきた。伊豆半島にひとつしかない総合周産期母子医療センターでは、近隣のお産を広く受け入れている。

 東京で一例でも多く腹腔鏡手術の経験を積み、第一線で活躍したいと思ってきた衛にとっては不本意な異動だった。周産期センターを設立した三枝善次郎教授は、数々の悪評で有名なうえ、腹腔鏡手術を重視していない。プライベートでも、恋人の沙耶とは遠距離恋愛となってしまい、衛が焦るのも無理のないことではあると思う。しかし、部長の城ヶ崎塔子をはじめとする産婦人科のスタッフたちはこの土地で安心な出産が実現できるよう高いスキルと理想を持っていた。彼らの影響を受けて、衛が真摯に医療と向き合い成長していくのが素晴らしい。

 医療小説における読みどころといえばもちろん医療に関する描写であるが、本書には二枚看板といっても過言ではないもうひとつの注目ポイントがある。それが随所で言及される、伊豆半島の海の幸山の幸だ。空腹時に読むのは危険と思われるくらい、次々においしそうな料理(+お酒)が登場する。
 伊豆という土地は、グルメ的な魅力がある一方で、医療的には病院を受診しづらい地域でもあることが物語に生かされている。いろいろな要素を生かし切って書かれた作品だと感じた。

 瀧羽麻子『東家の四兄弟』(祥伝社)は、文字通り東家の四兄弟の物語である。父親と同じ占い師の次男・真次郎、倉庫業の正社員である三男・優三郎、大学生の四男・恭四郎、苔の研究者である長男・朔太郎(登場順)。少子化の時代に壮観ともいえる家族構成だが、兄弟たちは比較的穏やかでギラギラしたところのない良好な関係を保っている。

(優三郎が過去に遭遇したもの以外は)大きな事件も起こらない。とはいえ、ささやかなできごとといっても当事者にとっては真剣な悩みにつながることはしばしばあるものだ。それぞれに個性も好みも違っているためベタベタした感じはないけれども、四兄弟はお互いを尊重し合っていて、いざというときには助け合ったりもする様子にほっとさせられる。

 今月は占いが出てくる作品が多かった。旬の題材なのか。

(本の雑誌 2024年1月号)

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●書評担当者● 松井ゆかり

1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。

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