二人の元半ぐれが対峙する月村了衛『半暮刻』を一押しだ!

文=酒井貞道

 一九三六年生まれの志水辰夫が現代を舞台にハードボイルドを久しぶりに書いたのは驚きだった。その『負けくらべ』(小学館)では、主人公である初老の介護士・三谷孝が、一族支配の巨大企業グループ東輝の内部抗争に巻き込まれる。正直なところ、主人公の設定は盛り過ぎである。コミュニケーション能力に優れるギフテッド。意思疎通困難な認知症患者にも心を開かせ、その能力を活かして長年にわたって内閣情報調査室に協力してきた。つまりその気になれば人脈伝いに情報収集や暗躍も可能。また、東輝グループの財団で辣腕を振るい始めたオーナー一族の人間にすぐ気に入られて顧問に任命される。つまり、主人公を事件に関係できる立場に持って行くまでの設定や話の流れが強引なのだ。しかしその位置付けが安定して以降は、なかなかに読ませる。物語はかなり劇的に動き、登場人物の年齢層にもかかわらず荒事も発生する。主人公の本来の生業が介護職であることもあって、人生の夕映え、黄昏時の空気感も濃厚で、箴言めいた台詞も頻発。所謂シミタツ節と呼ばれる文章表現を堪能してほしい。

 岡本好貴『帆船軍艦の殺人』(東京創元社)は、三年間出ていなかった鮎川哲也賞の正賞を久々に射止めた。時は一七九五年、革命下のフランスと戦争中のイギリスに所属する戦列艦ハルバートは、不足する乗組員を街の酒場で強制徴募する。身重の妻を持つ主人公ネビルも巻き込まれ、ハルバートに乗せられて海戦に赴くことになる。だが艦隊集結点に向かう航海中に、艦内で一人の水兵が何者かに殺される。被害者の近くにいたのはネビルだけで、彼は容疑者として目を付けられる。

 フランス軍艦と遭遇したらすぐにでも戦闘になる、だが敵がどこにいるかは当時の事だからよくわからない。この戦時下の緊張感がある上に、徴発された新米水兵は先輩たちにいびられ対立・緊張の状態は恒常化している。更には亡霊の噂も流れている。殺人事件が起きるのだ。それも一件では済まない。
 綿密に取材したのだろう、十八世紀の航海の実態に即し、艦船内の劣悪な環境の描写は真に迫っている。しかも先述の不穏な空気の描写が上手いし、詳しくは書かないが、戦争なり緊張状態なりが表面化して爆発した際には物語はしっかり白熱する。ヒロイックな言動を示す登場人物も出現し、海洋冒険小説としての完成度は高い。

 そして鮎川賞らしく、本格ミステリとしての結構も秀逸である。この舞台ならではのトリックやロジックがあり、手掛かりの提示も丁寧に行われている。本格ミステリ好きにオススメ。

 月村了衛『半暮刻』(双葉社)は、半ぐれ集団所属時に上昇志向=正義という思想を叩き込まれてホスト役をしていた二人の若者が、半ぐれを辞めた後にどうなるかを描いた、社会派ミステリ、クライムノベルないしノワールである。ただし、二人の人物像は対照的だ。一人目の翔太は、児童養護施設で育ち、中卒で学もなく、要領も悪く、プライドもそう高くない。第一部「翔太の罪」において彼は逮捕され前科持ちになってヤクザに身を落とす。そこで文学の魅力を知って、ヤクザからも足を洗い、貧しいながらも真面目に暮らすようになる。彼の読書は、「役に立つ」読書ではなく、読みたいから読む類の読書である。読書上の翔太の師匠格に当たるデリヘル嬢の沙季は、作品内容と実人生が相関しているから読んでいるのかと問われて激怒する。読書はそんなことのためにやっているんじゃないと。いや全くその通りで共感しかないです。

 だがこういう《趣味のための趣味》の考え方、感じ方が全く通じないのが、もう一人の主役海斗である。翔太とは対照的な、裕福で社会的地位も高い家で生まれ、名流大学にも入っており、逮捕等も上手く逃れて履歴には一切傷が付いていない。大学卒業後は最大手広告代理店アドルーラーに入社し、若手エリートとして、世界都市博を復活させる大プロジェクト(時代錯誤!)に抜擢される。そこで半ぐれ時代の過去に追い付かれる。海斗は一言で言えば上昇志向の怪物であり、選民思想にすら蝕まれている。彼にとって結果を出し栄達を目指すのが唯一絶対の正義であり至上命題なのだ。広告代理店業界では現実に、最大手企業がハードワークとホモソーシャルを極めた果てに複数の社員自殺事件を起こした。ホスト時代に得たノウハウも駆使して人心を弄ぶ。ヤクザやアドルーラーの上司、同僚すらも彼にはドン引きし始める。しかし彼だけはキョトンとしている。

 そんな海斗と翔太が再会し対峙する最終章では、翔太の言葉が海斗に全く届かない。読書に関する海斗の答えなどは本当にホラー。だが海斗も心のどこかで、自らの虚無に気付いている。それが行間から僅かに垣間見える、この幕切れこそ本書の白眉だ。今月の一押しはコレです。

 最後は黒川博行『悪逆』(朝日新聞出版)を紹介しよう。物語は、大阪府は箕面の金持ちの屋敷に強盗が入る場面から始まる。強盗は屋敷の主人の指を切り落とし、金塊の在処を吐かせた後、主人の頭を撃って殺害する。過払い金、マルチ商法、新興宗教などあこぎな商売の首魁に対する連続強盗殺人事件の幕開けだった。主人公を務めるのは、府警捜査一課の舘野と、箕面北署のベテラン刑事・玉川である。こてこての関西弁を喋る刑事コンビが、旨そうな飯を食いながら、口八丁手八丁で綿密な捜査を展開する、黒川氏一流のいつものアレが存分に楽しめる。経済犯罪の解像度も高く、犯人パートも活き活きとしており、陰惨な犯罪の顛末を楽々とした呼吸で描き切っていて素晴らしい。志水辰夫もそうでしたが、これこそ大家の筆というものだ。

(本の雑誌 2024年1月号)

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●書評担当者● 酒井貞道

書評家。共著に『書評七福神が選ぶ、絶対読み逃せない翻訳ミステリベスト2011-2020』。翻訳ミステリー大賞シンジケートの書評七福神の一人として翻訳ミステリ新刊の、Real Sound ブックの道玄坂上ミステリ監視塔で国内ミステリ新刊の、それぞれ月次ベストを定期的に公表。

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