生きていくことの理を問う青山七恵『私の家』

文=大塚真祐子

  • どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜
  • 『どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜』
    藤井 聡子
    里山社
    2,090円(税込)
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 家には人がある。人は習慣を生み、習慣は記憶となって、身体の内に折りかさなり、そのくり返しが、いつしか時をおし進める。家という枠組みの中でくり広げられる、人々のさまざまな営みを幾重にもはりめぐらせながら、人間が生きていくということの理をまるごと問うた小説が、青山七恵『私の家』(集英社)だ。

 一緒に住んでいた恋人から別れを告げられ、実家に暮らしはじめる娘の梓、幼少期に祖父母のもとで育てられた母の祥子、婚約者のため増築した家に、破談ののちも住みつづける大叔母の道世、行方不明の伯父、博和...一族が三々五々に会する法要の日から物語ははじまり、家族のそれぞれに語り手が移る。語りの中心に、ゆるやかに佇むのが梓だ。暮らしていた家を追い出されるという体験は、「住む」という行為そのものへの意味や適性を、梓に自問させる。

〈なまこは深海に住む、というよりいるだけだ。そこに存在を預けているだけ。ならば自分だって、ただ、いる、という存在のしかたが許されないだろうか、家という空間にたいして、住むという以外の関係の持ちかたができないだろうか......。〉

 梓の実家は、埼玉の北の「卯月原」という架空の町にあり、名産の大和芋畑が一面に広がる。梓は畑の変化に季節のうつろいを見ながら、土の下の世界に生きる虫や芋、ときには土そのものの厚みや冷たさに思いを馳せる。そしていつかこの土の続きに自分一人のための家を「作る」ことを思いつく。

〈芋は土に住んでいるわけではなく、そこにあるだけだ。自分もできるだけそういう芋のようでありたいと思っていたのに、どうしてもこの身体が、そこから生まれる習慣の数々が、ただいるという形態からはみ出し、住むという形態をひとりでに作っていってしまう。〉
〈どうせどこかに住まなくてはならないのなら、梓は一から、自分の家を作ってみたかった。この地球上のどこかに、わたしの家と呼ぶにふさわしい家を作って、芋を育て、大きな池に魚を放つのだ。〉

 梓と同じように、家という場所から逃れようとしたのが、音信不通だった伯父の博和だ。父親の葬儀での母親との諍い以来、家族との連絡を断っていた博和は、再会した道世にこう語る。

〈家から離れれば、できるだけ遠くに行って、どこにも定住しないで、家っていう場所じたいをなくしてしまえば、ひとまずは自由になれるだろうと思ったんだよ。でもそうはならなかった。どんなに根無し草を気取ってみても、逃げてきた家とはまたべつの、見えない家があるって気づいたから。〉

 どの章の語り手も、家という場所や家そのものについて、深く思考するいっときがある。思想や定義はそれぞれだが、梓と博和が呼応したように、互いの知らないところでほのかにつながっていたり、重なっていることを、この物語に触れた者だけが、見届けることができる。

 人間は、ただ生きているというだけで、否応なく何かを生みだしてしまう。生みだしてしまう何かをひとまずは内側に閉じこめるのが家であり、そこに帰ろうとする人、ともに暮らそうとする人、一から作り直そうとする人の、家に対するアプローチはじつは大きく異なる。その差異を物語によって綿密に、繊細に浮かびあがらせたのがこの作品であり、家族や一族の話でありながら、家という空間についての話でもある。

 物語はふたたびの法要の場を描いて終わる。法要のあと、祥子の頭によぎる〈一つの大きな家〉のイメージに、この小説のすべてが語りつくされていると言ってもいいだろう。読みごたえのある一冊だ。

 藤井聡子『どこにでもあるどこかになる前に。』(里山社)は、二十九歳を目前に、東京から故郷の富山へUターンした著者が、富山という土地と、ぐらぐらに揺らぐ「自分らしさ」と向きあう日々を描いた、現在進行形の〈逡巡記〉である。

 故郷での居場所のなさに絶望しながら、著者は全力であがき、迷走する。迷いの中で、富山の閉鎖性を開放し均質化することが、本当に正しいことなのかという問題意識と、富山に暮らす個性派ぞろいの面々と出会い、いびつで珍妙な富山を書くという居場所を見つける。

 悦にいった自分語りや成功譚からはほど遠い。過ちも痛々しさもさらけ出しながら、富山への愛を不器用に叫ぶ著者から、ひたすらパワーをもらうエッセイだ。この本を携え、いつか富山に行ってみたい。

 嵯峨景子『氷室冴子とその時代』(小鳥遊書房)も、二〇〇八年に亡くなった小説家、氷室冴子への愛にあふれた評論だ。著者の名は『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』(彩流社)で知った。講談社X文庫が台頭した時代、わたしは断然コバルト文庫派で、氷室作品ももちろん読んだ。

 この評論を読むと、当時の氷室冴子がいかに「少女小説家」という肩書をこえた、先鋭的な試みをしていたかを知り驚愕する。少女を入口に、現代にも通じるフェミニズム的な問題を、氷室冴子はくり返し提起する。病を得てから死を迎えるまでの、周到な準備と気配りにも圧倒された。〈この本を開けば、氷室冴子にまた会える。〉という帯文に、くり返し心が沸き立つ。『なぎさボーイ』や『多恵子ガール』をひらいて、氷室冴子と少女の自分に会いに行こうか。

 一方で、二〇一八年に逝去した詩人、片山令子の随筆集『惑星』(港の人)を読むと、すっと心が静かになる。端正な言葉の中に、著者の体温を感じる。人を好きになる心の動きを書いた「リボンのように」を読み、こんなにも美しい言葉の連なりがあるのか、と思わず目を閉じた。わたしの内側にもわたしの惑星が見えた。

(本の雑誌 2020年1月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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