村上春樹から伊藤比呂美まで初夏のエッセイ祭り!

文=大塚真祐子

  • 猫を棄てる 父親について語るとき
  • 『猫を棄てる 父親について語るとき』
    村上 春樹
    文藝春秋
    1,320円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • パリの砂漠、東京の蜃気楼
  • 『パリの砂漠、東京の蜃気楼』
    金原 ひとみ
    ホーム社
    1,870円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • リリカル・アンドロイド (現代歌人シリーズ29)
  • 『リリカル・アンドロイド (現代歌人シリーズ29)』
    荻原裕幸
    書肆侃侃房
    2,200円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

〈まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す〉とは九〇年代はじめ、修辞を駆使した新しい世代の短歌を「ニューウェーブ」と名づけ、穂村弘らとともに、ニューウェーブ短歌の旗手の一人とされた荻原裕幸の初期の代表歌だが、今もときおりこの歌が口をつく。二つの大震災ののち、未知の感染症の拡大という事態を前にした自分の世代は、何を試されているのだろうとぼんやり考えながら、〈時代といふ牙〉が首元にゆっくりと、柔らかくめりこんでいくのを想像する。

〈おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成りたちなのだ。〉

 亡くなった父親との関わりを軸に自らのルーツを書いた随筆、村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)で著者は、歴史と個人の間に横たわる事実のゆるぎなさと、事実のもたらす偶然の儚さを丹念に浮きぼりにする。戦争により勉学を中断せざるを得なかった父親に対し、勉学よりも自分の好きなことに熱心だった「僕」は、父をずっと落胆させてきたことを、今も漠然と後ろめたく思う。その後ろめたさに向き合い、書かれたのが前出の文章だ。

 著者が自らを語るのは今回がはじめてではない。ただ、これまでは語られる対象が"小説家"としての村上春樹であったことに対して、本作は小説家という肩書きを、可能なかぎり外した場所から書かれているようにみえる。身内について語るという所作がそうさせているのかもしれず、これまでの随筆とは明らかに趣が異なる。

「小さな歴史のかけら」と題されたあとがきにおいて、著者はこの短い文章を〈いわゆる「メッセージ」として書きたくはなかった〉と記すが、本作から受けとるものは想像以上に大きかった。それはまず作家と読者である自分が〈ひとつのかけら〉として、確かに同時代を生きていると実感したことだ。作家も自分も戦争を体験していないが、身近な先祖の記憶をひもとくことで、その事実はたちまち目の前に立ち現れる。歴史はつねに私たちの内側に流れており、流れつづける歴史への触れ方の手がかりを、本書の語りから得たように思った。

 金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』(ホーム社)は著者初のエッセイ集。六年過ごしたパリでの暮らしと、帰国後の東京での生活を描く。テロが日常と化したパリで、シャルリー・エブド襲撃事件の記憶を蘇らせる冒頭から、書かれた景色の密度に圧倒される。

〈テロという初めての脅威に直面しながら、私はあの大震災の恐怖の記憶がそれまでとは別のものに変容していくのを感じてある種のカタルシスを得ていた。"恐ろしいもの"の対象が塗り替えられていくことに、訳も分からず強烈に心を揺さぶられたのだ。〉

 天災がありテロがあり、そして今、世界中がウイルスの脅威にさらされている現状を、過去から透かし見ているような不可思議さを覚える。しかし著者が向き合いつづけるのは、震災でもテロでもなく、つねに相反し乖離していく自分自身だ。

〈目を閉じて浮かぶものと、今目を開けてそこにあるものの差が耐え難い。ここにいたくないのにここにいる。一緒にいたい人と目の前にいる人が違う。望んでいる世界と今いる世界が遠く離れている。ただひたすら全てがばらばらで、散り散りに引き裂かれている気分だった。〉

 ほどいてもほどいても伸びてくる手のような、痛切で苛烈な著者の創作の生まれる場所を見たように思った。射られたようにそこから動けない、自分の姿とともに。

 伊藤比呂美の随筆集『道行きや』(新潮社)をひらいて手がとまる。本の前後に挟む遊び紙が、金原ひとみのエッセイと同じ深紅の紙だった。異国での生活から、東洋人としてのアイデンティティを俯瞰する視線にも近いものがあるが、放たれた言葉の数々は異なる。

 夫の死後、教鞭をとることになった早稲田大学へ、著者は熊本から通う。異国から連れてきた犬、草木の名と熊本の自然、学生や友人たちとのやりとりなど、著者の今の暮らしを象るものたちへ、ひたすらこねる粘土のように触れつづけていると、名前のない時間がいつしか流れ、著者の言葉とともにわたしも老いている、とふと思う。そのことを軽やかに受け入れる。

 学生とのエピソードはいずれも鮮烈だ。授業の感想を書きこむ「リアクションペーパー」には、〈「勝手にやってろ」的〉な批判もあれば、人生相談もあり、こんなコメントもある。

〈「発音が違います。先生は『ちふれ』みたいに『セフレ』と言いますが、ほんとうは『デフレ』みたいな『セフレ』です」〉

 思わず吹き出した。現代詩文庫を模したビニールカバーの装丁が目を引く一冊。

 カシワイ『光と窓』(リイド社)は、書籍の装画も多く手がけるイラストレーターが、影響を受けた数々の文学作品を漫画化した一冊。この繊細な描線で、安房直子や新美南吉を読めるとは思わなかった。こんなにも静かに、原作へと呼吸を合わせる漫画は他にない。非常時に言葉を追うのがつらい、という方にも薦めたい。

 冒頭で紹介した荻原裕幸の19年ぶりの歌集『リリカル・アンドロイド』(書肆侃侃房)には季節が多く詠まれる。あとがきで〈しばらくは短歌に苦しめられて〉いたと綴る歌人の今の歌を、終わらないような気がする春の中で読む。

〈昨日のわたしが今のわたしを遠ざかる音としてこの春風を聴く〉

(本の雑誌 2020年7月号掲載)

« 前のページ | 次のページ »

●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

大塚真祐子 記事一覧 »