『一人称単数』は新しい村上春樹の短編集だ!

文=大塚真祐子

  • どこにでもあるケーキ
  • 『どこにでもあるケーキ』
    三角 みづ紀,塩川 いづみ
    ナナロク社
    1,870円(税込)
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 6年ぶりの短編集として刊行された村上春樹『一人称単数』(文藝春秋)には、8作品が収録されている。村上作品を体現するフレーズの一つ「やれやれ」は、今作では中ほどに所収の「「ヤクルト・スワローズ詩集」」に登場する。

〈サンケイ・アトムズの帽子をかぶっている子供なんて、ただの一人も見かけなかった。あるいはそんなけなげな子供たちは、こっそりと裏道を歩いていたのかもしれない。足音を忍ばせ、軒下を縫うようにして。やれやれ、いったいどこに正義なんてものがあるのだろう。〉

「僕」がいかにしてスワローズファンになったかを、球場で書き留めた詩とともに綴るこの作品について、おそらく村上春樹に触れたことのある読者であれば、これはエッセイではないか、と考えるだろう。著者が神宮球場で「小説を書いてみよう」と思い立ったこと、それがスワローズ初優勝の七八年であることは他著にも既出だ。

 そもそも「ヤクルト・スワローズ詩集」になじみがある。八一年に冬樹社、のち講談社文庫で刊行された糸井重里との共著『夢で会いましょう』に、この詩集からの紹介という体で詩が収録されている。実在はしないと著者自ら否定した詩集だが、二〇一四年にスワローズの公式ホームページで、今作の元になったと思われる「「ヤクルト・スワローズ詩集」より」という題の"メッセージ"が掲載されていたことは知らなかった。

 原稿用紙7枚ほどの"メッセージ"から今作に書き足されたのは、いくつかの詩と父母に関する事柄だ。これは当欄7月号で紹介した『猫を棄てる 父親について語るとき』に記された内容とも重なる。「やれやれ」を含め、この"短編小説"をはじめとする今回の作品集が、春樹節全開のようでありながらこれまでと決定的に異なるのは、どの作品も語り手が春樹本人であるように見えること、あるいはそう見えてもいいと仕掛けているように思えることだ。

「石のまくらに」は、19歳の「僕」が同じアルバイト先で働くある女性とともにした一夜を書く。あらすじでは新鮮味を感じないかもしれないが、次の文章に触れてひどく驚いた。

〈しかしとにかく僕は、彼女がまだこの世界のどこかにいることを心の隅で願っている。生き延びていてほしい、そして今でも歌を詠み続けていてくれればと、ふと思うことがある。〉

 村上春樹がこのような祈りを、小説でこんなにも無防備に差し出すことはあまりなかったように思う。度々の性交や美醜に関する描写に異を唱える読み手は少なくないだろうが、一貫して著者はこのようなモチーフを小説に用いており、これらは創作世界の前提となる。それを理由に作品が否定され、読む機会が失われるとしたら勿体ない。老境にして新しい村上春樹をまずは体験してほしい。

 昨年の当欄で紹介した私家版の『ジョン』が話題を呼んだ、早助よう子の作品集『恋する少年十字軍』(河出書房新社)が刊行される。表題作は「市民カウンセラー」を失職した瑠美が、親友である周子の9歳の息子、瞬点を預かることになるというのが大筋だ。

 この作品で使われている主な人称は、「あなた」である。

〈あなたはそろそろ都会の生活に見切りをつけ、田舎の汚染されていない、きれいな空気を胸いっぱい吸い込みたいと思い、両親の家に戻った。〉

「あなた」が主人公なら語り手は誰なのか。問いを抱えたまま物語は動く。「あなた」の田舎暮らしがはじまるのかと思いきや、行数にして7行で「あなた」は東京に再び戻り、失職したという事実を告げられている。

〈その足ですぐさま区役所まで走って階段を一気に駆け上がり、息を切らしながら福祉課の職員に詰め寄った。/「どろぼう! わたしの仕事を返してよ!」〉

 段落どころか一行ごとの飛距離が尋常ではない。早い展開とめくるめく混沌に、いま自分は間違いなく未知の小説を読んでいる、と高揚する。

『ジョン』にも顕著だが、著者は「市民」の抵抗の表現として、物語という手段を手にしているように思う。市民の対義語は社会や国家かもしれないが、大きなものに対して軽やかに立ち向かう著者の強靭さのようなものを、作品の底に垣間見る。

 類を見ないという点で同じような印象を、太田靖久の作品集『ののの』(書肆汽水域)にもおぼえた。新潮新人賞を受賞した表題作は、空き地に大量の白い本が野晒しになった街が舞台となる。「の」の形の目をした白い巨大な鳥が住むこの本の山を、「のののやま」と名づけた「僕」の物語だ。

〈「雨が降ると本が溶ける」〉

 白い本の山が溶けるというイメージは、放射性廃棄物の黒い袋が並ぶ映像に重なるが、今作は驚くべきことに東日本大震災前に書かれている。

〈「本が溶けると文字が滲み出し、文字は雨に混じる。雨は川に流れ込み、浄化されろ過され、飲み水になってしまうのか? 不要な水分は排泄されるだろうが、文字は言葉になって体内に残ってしまうのだろうか?」〉

 記憶や思い出すという行為について、はぐらかし迂回しながら何度も手を伸ばすような物語だ。作品の核となる次の台詞が、読後も鮮烈に残った。

〈「思い出になるのは、自分で思い出したことがあることだけだよ」〉

 三角みづ紀『どこにでもあるケーキ』(ナナロク社)は、詩人が13歳の「わたし」の記憶に潜り、その思索に言葉の指で丁寧に触れた、書き下ろしの詩集。余白の向こうに、数多の13歳の「わたし」の眼差しを見る。金の箔押しの小さなタイトルが、グラシン紙に揺らぐような装丁も特別だ。

(本の雑誌 2020年11月号掲載)

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●書評担当者● 大塚真祐子

東京郊外の書店での勤務を経て、2006年より三省堂書店で勤務。人文書、文芸書などを担当。

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