朝井リョウ『正欲』にぶん殴られる!

文=高頭佐和子

  • 俺と師匠とブルーボーイとストリッパー
  • 『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』
    桜木 紫乃
    KADOKAWA
    1,760円(税込)
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 今月はまず朝井リョウ『正欲』(新潮社)について書かなくてはならない。ざらざらした紙やすりのような小説だ。取り繕った表面を削り取り、心の内側に隠しているものを曝け出してしまう。人と共有しづらい経験や欲望を持つ人間には、痛みの再確認をせずにいられない作品でもあるだろう。

 男児のわいせつ画像を撮影した容疑で、男たちが逮捕されたというネットニュースの記事から小説は始まる。男たちのうち、食品会社で商品開発をしている佳道と、大学生でダンスサークルに所属する大也は容疑を認めていないらしい。この二人とその周辺人物たちの、事件までの約一年半が描かれる。男性から性的な視線を向けられることに苦痛を感じ、ダイバーシティをテーマにした学園祭の運営に情熱を燃やす大学生・八重子。小学生の息子が、学校に行かない道を選ぼうとすることを受け入れられない検事・啓喜。他者との繋がりを避けるように生きてきた寝具店販売員・夏月。人に打ち明け難い何かを抱える彼らの思いに共感しつつ、予想しなかった展開に驚愕した。

 多様性のある社会をどう思うか、と聞かれれば、多くの人がいいと思うと答えるだろう。だが、どんな特性に対しても決して嫌悪したり、嘲笑したり、存在を否定したりしないと、胸を張って言えるだろうか。表面では理解する側にいると言いながらも内側に差別意識を潜ませている傲慢さも、自分の中にある何かが人から忌避されるのではないかと怯えている孤独も、私自身の中に存在するものだと言うことを認めざるを得ない。頭をなぐられたような衝撃が、読み終えた後も残る。大きな問題を突きつけてくる小説だ。読者の反響も気になるところである。

 桜木紫乃『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』(KADOKAWA)の舞台は、北海道の東端に近い街の老舗キャバレーだ。昭和五十年冬の一か月間の出来事が描かれている。桜木氏の描く場末感が、いつものことながら見事である。

 下働きの章介は、二十歳の青年だ。ショーの出演者が利用できる寮があるのだが、古すぎて誰も泊まらないため、章介が一人で使っている。そこに、新しい住人たちがやってくる。舞台の上では失敗ばかりなのに、自分を師匠と呼ばせたがる「世界的有名マジシャン」チャーリー片西。客席をビビらせる厚化粧の大男だが、迫力のある歌唱力と巧みな話術で客からチップを巻き上げる「シャンソン界の大御所」ソコ・シャネル。どう見ても年齢詐称だが、ライトを浴びれば客席を虜にする「今世紀最大級の踊り子」フラワーひとみ。三人は、ネズミに布団を食い荒らされた極寒の寮に文句を言いながらも、当然のように章介の生活に入り込み、訳ありな人生を歩んできた者らしいユーモアと、見返りを求めない少しの優しさを持ち寄って暮らし始める。そして、根無草のように生きてきた章介は、次第に彼らに心を開き成長していく。灯油のストーブで焼く焦げたホットケーキや、胸焼けするような甘さのフレンチトースト。美味しいわけないと思うのに、どうして食べたくなるんだろう。わずかに記憶に残る昭和歌謡を、口ずさみたいような気分になった。

 赤松利市『隅田川心中』(双葉社)は、主人公が馴染みの喫茶店でナポリタンを食べる場面から始まる。令和の時代にあっても昭和ムード全開の喫茶店に漂うケチャップの香り。うっかり食欲がわいたことを、すぐに後悔した。とにかく、クズ男しか出てこない小説なのだ。

 一郎はゴルフ場協会で働く定年間近の独身だ。先々の不安がないわけではないが、安定した収入もあり自由に暮らしている。ある日、喫茶店主の小川から、アルバイトの咲子(三十二歳、極貧アーティスト)の相談に乗ってやってほしいと頼まれる。バクチ狂いでアル中の父親が作った借金三十万円を返さないと売られてしまうのだと言う。「愛人にしてください」と言われて戸惑いつつも、性欲に突き動かされて金を用立ててしまう。勤務中にウキウキとED薬を選びにいったり、咲子の体を見てがっかりしたくせに、事に及んだ後はあっさり溺れるあたりまでは、哀れみとムカつきを帯びた呆れ笑いが口元に浮かぶ程度だ。が、結婚を決めたすぐ後に咲子の友人の見目良さに興奮し、大金を渡すなどして欲望を果たそうとする節操のなさには思わず舌打ちが出る。ふざけんなこのクソエロじじい!と脳内で回し蹴りだ。小川はさらにタチが悪い。欲と快楽のためにはなんでも利用する狡猾な極悪エロじじいである。こんな奴にナポリタンを作る資格はない!

 常に損得を考えているくせに、世の中の動きも読めず先の見通しも甘すぎるせいで、窮地に追い込まれていく一郎。眉間の皺が深くなっていくのを感じつつもページをめくる手が止められないのは、その愚かな姿を冷笑するかのような語りが絶妙だからだ。クズ男どもに散々利用されてきた咲子の、必死さとしたたかさに心がざわつく。もっと歩きやすい道はあるはずなのに、人はなぜ進んではいけない道を選んでしまうのだろう。やりきれなさに、心が苦しくなる。

 一木けい『9月9日9時9分』(小学館)は、初恋を通して成長する高校生を描いた小説だ。愛情あふれる家庭に生まれ、父親の赴任先であるタイで伸びやかに育った漣は、入学した高校で出会った一学年上の男子生徒・朋温に惹きつけられる。ある出来事をきっかけに二人の距離が縮まってから、彼が姉の元夫の弟であることに気がつく。姉は夫からのDVで心身に傷を負ったのだ。家族に秘密を持ってしまった漣だが、許されない恋にも家族や友人たちとの関係にも、まっすぐな心でぶつかっていく。初めて人の痛みや苦しみに触れ、悩みながらも前に進もうとする漣がまぶしい。

(本の雑誌 2021年5月号掲載)

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●書評担当者● 高頭佐和子

神奈川県生まれ。都内在勤書店員。文芸書担当。

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