山下紘加『エラー』に内臓を乗っ取られる!

文=高頭佐和子

  • アンソーシャル ディスタンス
  • 『アンソーシャル ディスタンス』
    金原 ひとみ
    新潮社
    1,870円(税込)
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 山下紘加『エラー』(河出書房新社)は新鮮な驚きに溢れる一冊だ。主人公はフードファイターである。あまり興味がわかない職業だ。食べ物は味わっていただくべき、という考えの私としては、嫌悪感すらあったのだが、読み始めると夢中になってしまった。

「稀代の胃袋」と称えられる強靭な内臓を持つ「大食いクイーン」一果は、アイドルとしての活動経験もあるルックスの持ち主。公の場に出るのは大会のみで、ストイックに自己記録を更新していくことに喜びを覚えている。アスリートとしてのプライドを持って闘いに挑み、大会では連続優勝し、向かうところ敵なしのはずだった。が、予選で思わぬ相手に負けてしまったことから、フードファイターとしてのあり方に迷い、感じたことのない不安に苛まれていく。

 とにかく、感覚描写がすごいのだ。衆人環視のもと、肉を次々に咀嚼し嚥下し、胃から腸へと落とし込む。執拗なほど細かく描かれるので、読んでいると食欲が失せ胸焼けがしてくる...はずなのに、気がつくと妙に爽快な気分になっている。まだ食える気がしてくる。この奇妙な身体感覚、主人公に内臓を乗っ取られたかのようだ。誰よりもたくさん食べるという競争から生まれる達成感、矜恃、敗北感が、リアルに感情を揺さぶってくる。思わぬかたちで、心と体が繋がっているということを意識させられてしまった。

 早く走れる者が記録更新を目指すように、一果は自分の食欲の「底」を経験しようとする。他者より優れた能力を持った者が限界まで闘おうとするのは、人間の本能のようなものなのかもしれない。もうやめてーッ!と叫び出したくなるラストまで、一気に読んでいただきたい。

 感覚描写が新鮮という点では、高校生作家・珠川こおり『檸檬先生』(講談社)もおすすめだ。主人公は、数字や音や人が色に見える「共感覚」を持つ小学三年生の少年だ。ほとんど帰宅しない芸術家の父親と、感情の不安定な母親。無理解な教師と、異質な者を排除したがる同級生。どこにも居場所がない少年は、放課後の音楽室で、中学部の生徒である檸檬色の少女と出会う。少年と同じように共感覚を持つ「檸檬先生」から、さまざまなことを教えられ、芸術へと導かれ、日常は輝き始める。

 音や色といった言葉での表現が難しいものを、精密に描き出そうとする意欲的な作品だ。共感覚を通して聴いた曲を二人で一枚の絵に仕上げていくシーンが、独創的で美しい。孤独な心が寄り添い重なり、はぐれていく過程を描いた切ない小説でもある。才能のきらめきが眩しい鮮烈なデビュー作だ。

 桐野夏生『インドラネット』(KADOKAWA)は、どこに流れ着くかわからない展開から目が離せない傑作だ。主人公の晃はかなりダメな青年である。過去の桐野作品で言うと『ポリティコン』(文春文庫)に登場する超自己チューな主人公に近い。ヤツから野望と実行力を奪い、卑屈さを倍増させた感じだ。コンプレックスが強く、努力も反省もしない。契約社員として勤務する職場では、自分より立場の弱い女性へのハラスメントを行い、注意されると逆ギレする。最低ヤロウだ。

 そんな晃にも、輝かしい時期があった。高校時代、知性に溢れるイケメンカリスマ同級生・空知と親友と言って良い関係にあり、美しい姉妹たちからも親しまれていたのである。晃は彼らの父親の葬式に参列し、三人が行方不明であることを知る。空知の姉の元夫を名乗る人物の依頼で、カンボジアにいるという兄弟を探しにいくことになったが、調査費用をもらったにも関わらず、ゲームにハマってなかなか旅立とうとしない。ようやく出発したものの、事前調査や必要な準備が全くできていないために、ひどい目に遭いまくる。どれだけダメなのか? イライラさせられるが、回り道をしながらも真相に近づいていく。

 狭い世界に閉じこもってウダウダとしているダメ人間。それは、ある意味私自身の姿なのだと、読みながら気がつかされた。誰も信用できない異国の地に放り出され、親友への深い愛だけを心に抱いて生き抜こうとする晃の遅い成長と、空知兄弟に与えられた過酷な運命に胸が締め付けられる。いつまでも記憶に留まりそうな桐野作品である。

 平野啓一郎『本心』(文藝春秋)の舞台は、約二十年後の近未来だ。主人公は、母を亡くし天涯孤独の身となった青年・朔也。依頼者の代わりに危険な場所や遠い場所などに出かけていく「リアル・アバター」という人から蔑まれがちな仕事に就いている。母は自分で死期を決定する「自由死」を希望していたが、朔也が反対しているうちに事故死してしまった。孤独を慰めるために母のヴァーチャル・フィギュア(VF)を作った朔也は、彼女と交流のあった人々に会い、知らなかった姿を知ることによって、VFをよりリアルな存在に近づけ、自由死を望んでいた母の本心に近づこうとする。

 主人公が、不器用ながらも真摯に、一人の人間の中にある多様性に向き合っていく姿から、現代を生きる私たちが避けて通ることのできないさまざまな問題を考えさせられた。若い世代にも読んでいただきたいと思う。

 金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』(新潮社)は、心を抉られ、追い詰められる短編集だ。主人公の多くは、仕事も経済力もある女たちだ。解決しきれない問題をそれぞれかかえ、そこから目を逸らすように、アルコールや整形、不倫にはまっていき、自分を止めることができなくなる。一編読むごとに、取り繕った自身の表面が乱暴に剥がされるように痛み、逃げ出したくても出口が見つからないことに愕然とさせられる。覚悟を持って読むことをオススメする。

(本の雑誌 2021年8月号掲載)

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●書評担当者● 高頭佐和子

神奈川県生まれ。都内在勤書店員。文芸書担当。

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