己のルーツと向き合うジャミル・ジャン・コチャイの短編集

文=橋本輝幸

  • きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする
  • 『きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする』
    ジャミル・ジャン・コチャイ,矢倉 喬士
    河出書房新社
    2,750円(税込)
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  • 美は傷 (アジア文芸ライブラリー)
  • 『美は傷 (アジア文芸ライブラリー)』
    エカ・クルニアワン,太田 りべか
    春秋社
    4,400円(税込)
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  • ボリス・ダヴィドヴィチのための墓: 一つの共有の歴史をめぐる七つの章
  • 『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓: 一つの共有の歴史をめぐる七つの章』
    ダニロ・キシュ,奥 彩子
    松籟社
    2,200円(税込)
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  • 青い落ち葉
  • 『青い落ち葉』
    キム・ユギョン,松田 由紀,芳賀 恵
    北海道新聞社
    2,420円(税込)
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 アフガニスタン系アメリカ人作家ジャミル・ジャン・コチャイによる初の短編集『きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする』(矢倉喬士訳/河出書房新社)には、様々なスタイルの掌編や短編が十二作収録されている。作中で超常的なことが起こる話も、起こらない話もある。アメリカ国籍やアメリカ在住の人物が、ルーツのアフガニスタンと向き合わざるを得ない展開がたびたび繰り返される。二人称で語られる表題作では、ゲーム好きの少年が買ったばかりの『メタルギアソリッドV』(二〇一四)をプレイ中、親族そっくりなモブキャラクターや見覚えのある土地に思いがけず遭遇する。実際、本ゲームの後半は、アフガニスタンでソ連軍と戦いながら奥地へ潜入していく展開なのだ。多くの人が共感可能な、地獄のような思春期をゲームや音楽でしのぐ少年が、著者ならではの視点で描かれている。「ハラヘリー・リッキー・ダディ」では、カリフォルニアに住む大学生リッキーがパレスチナ出身の学生に恋をする。彼女の夫がイスラエルの刑務所に収容されてハンガーストライキを始めたと知って、リッキーもハンガーストライキを始める。はなから報われない愛に殉じるリッキーが切ない。「差出人に返送」は強烈だ。祖国のため、カブールで医師として働くアフガニスタン系アメリカ人夫婦のもとに、箱に入った息子の体の一部が宅配される。各部位が動くという怪奇現象は、部位をつなぎあわせると収まる。

 戦火から離れていても、故郷が戦地になった者の心は休まらない。一度衝撃を受ければ二度と目をそむけられなくなる。無力感にさいなまれる心の痛みは、決して幻ではない。

 注目の叢書〈アジア文芸ライブラリー〉の新刊として、エカ・クルニアワンの『美は傷』(太田りべか訳/春秋社)が改訳で復活した。一九七五年生まれのインドネシア人の第一長編である。原書は二〇〇二年、彼がまだ二十七歳のときに出版された。本書はまだ英訳も出版されていない二〇〇六年に、翻訳家太田りべか氏の奔走によって新風舎文庫から出版された。当時、私は書店の文庫新刊コーナーで本書をふと手にとり、重いリアリズム小説かと思ったらだいぶ破天荒な中身に驚いた記憶がある。それもそのはず、本書はエピグラフに『ドン・キホーテ』を引用し、『百年の孤独』にインスパイアされている。

 舞台はジャワ島の架空の町ハリムンダ。オランダ人農園主の息子とその異母妹の間に生まれた主人公デウィ・アユは、日本軍の占領下で慰安婦にされ、家族や財産を失い、戦後も娼婦として生きる。だが個性的で聡明、我が道を行くデウィ・アユはめげない。彼女の四人の娘たちとその家族を中心に、ハリムンダの年代記が紡がれる。町での合意なき結婚や性行為。インドネシア史に残る出来事の影響。あらゆる理不尽なできごとが登場人物たちを苦しめる一方、悪人や侵略者にも良心があり、人生は過酷なことだけではない。そして超常的で奇妙なことは『百年の孤独』を上回るペースで起こる。著者は第二次世界大戦はもちろん、一九六〇年代のスハルト元大統領によるクーデターや共産党員の虐殺も直接は経験していない。しかし不条理な暴虐とそのばかばかしさを描くことで、正確な模写ではなくともムードを再現した。

 ユーゴスラヴィアの作家ダニロ・キシュの『ボリス・ダヴィドヴィチのための墓 一つの共有の歴史をめぐる七つの章』(奥彩子訳/松籟社)は、著者の生きた二〇世紀初頭前後のヨーロッパの暗部を描いた短編集である。他の代表作を読んだ読者は、本書の容赦ない陰惨な表現に驚くかもしれない。私もキシュはこんな作風だったろうかと首をひねり、解説で納得した。なおホルヘ・ルイス・ボルヘスによる世界悪党列伝『汚辱の世界史』に触発された本書は論争を巻き起こし、キシュは出版から数年後にフランスに移住してフランスで生涯を終えた。

 収録の七編のほとんどで、欧州の男が悲惨な死に至る。『汚辱の世界史』は有名な悪人を集めているが、本書には凶行の被害者も加害者も、少し不運だっただけの人物も登場する。多くの死は、共産主義運動やソビエト連邦に関わる。「犬と書物」は十四世紀フランスで強制的に改宗させられるユダヤ人の歴史小説でひときわ生々しい。「A・A・ダルモラフ小伝(一八九二−一九六八)」では、詩人が作品の名声ではなく、珍しい症例の患者として名を残す。あんまりだ、と言いたくなる話ぞろいだ。描写が精緻で、登場人物が非実在とは信じられない。

 北朝鮮出身の覆面作家キム・ユギョンの三冊目の著書『青い落ち葉』(松田由紀・芳賀恵訳/北海道新聞社)は、年齢や性別、境遇の異なる北朝鮮出身の人々を主役にした九編を収録している。かつて朝鮮作家同盟に所属し、体制のための文学を書いていた著者は、二〇〇〇年代に脱北して韓国に渡り、創作活動を続けている。収録作はどれも読みやすく巧みな短編小説だ。「平壌からの客」では都会から地方へ追放された元科学者と連れ添ってきた妻が、突然都会からの客の訪問を受ける。「ご飯」は韓国に来て十年以上経った老女が、韓国人女性と結婚した息子との同居でストレスを感じる。女性の描写に注力されているのは、脱北者には中国への出稼ぎや人身売買から逃げた女性が少なくないからだ。夫婦や親子、姉妹であっても心が通じ合っているとは限らない。男から女への一方的な愛は珍しくなく、女から男への勝手な愛もある。こうした題材を率直に表現しつつ、読者に悲惨さや苦労以外も伝えてくれる。なお入手は注文が確実。

(本の雑誌 2025年5月号)

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●書評担当者● 橋本輝幸

1984年生まれ。書評家。アンソロジストとして『2000年代海外SF傑作選』『2010年代海外SF傑作選』、共編書『走る赤 中国女性SF作家アンソロジー』、自主制作『Rikka Zine vol.1』を編集。
現在、道玄坂上ミステリ監視塔(Real Sound)や「ミステリマガジン」新刊SF欄に寄稿中。

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