ケアの外側でも展開するキム・ユダム『ケアする心』
文=橋本輝幸
今月一冊目に紹介するのは韓国文学で、キム・ユダムの『ケアする心』(小山内園子訳/白水社)だ。表題通りのコンセプトの短編集で各話にケアする者とされる者が登場する。ただし、必ずしもケアする者と世話される乳幼児や高齢者の関係だけに焦点が絞られているわけではなく、その関係の外側で展開する話が意外と多い。読みどころはやはりディテールの切り取りかたの絶妙さにあるだろう。たとえば巻頭に収録された「ナツメ」は高校生の語り手が容体の悪い祖母からかつて住んでいた家の庭木に実るナツメを所望され、従兄弟と共に採りに行く話だ。祖母の老いた肉体や傍若無人な態度に対してかすかに感じざるを得ない嫌悪感、気づかざるを得ない従兄弟と自分への態度の違いといった細部が丹念に拾われ、リアリティを生み出している。「ヨンジュの半分」では育休中の語り手がたまたま元同僚のヨンジュと再会する。ヨンジュとは彼女が幼い息子を家での事故で亡くしたと知ってからすっかり疎遠になっていた。ヨンジュの言動からは彼女の過去と現在の考えが時々ほのかに漏れ出る。こうしたリアリズム小説はしばしば読者が共感できるかどうかという点で評価されがちなものだが、本書は各話の設定と展開がそれぞれに大きく異なり、あらすじが印象に残るため、ケアというコンセプト一辺倒になっていない。登場人物と別の登場人物が共有するささやかな秘密も余韻を残す。あとがきによれば著者はパンデミックの最中に幼児を育てながら本書収録の小説を書いていたという。他人の生活と命を支える日々を描いた小説集は、まさにそうした孤独な日々から生まれたのだ。
先月に引き続き紹介するのが、アンドレイ・プラトーノフの「プラトーノフ・コレクション」第二巻『プラトーノフ・コレクションⅡ ジャン 1932‒ 1951』(工藤順・古川哲編訳/作品社)である。ソビエト連邦(ロシア)の作家である著者は、第一巻に収録された「将来の利益のために」の内容によって大きな批判を受けたが、その後も作家として創作を続けた。巻頭の章「新しい道を求めて」に収録されているのは実在の場所や労働者をモデルに描かれた、ソ連の社会主義礼賛が期待されるジャンル「生産小説」だ。ところが著者の作品はまったく愛国的でも英雄的でもない。繊細な筆致や淡々とした描写で一貫している。プラトーノフは現実を書こうとすると嘘がつけない。彼自身もそうした特性に気づいていたのか、本書に収録された時期の著作は、表題作のように中央アジアが舞台だったり、子どもや老人を視点人物とする寓話風の作品だったりと彼が生きる現実からは距離を置いたものが多い。ただし「戦争とその影」と題された章では、プラトーノフが従軍記者として前線に立った体験や彼の故郷がドイツ軍の占領から解放された後に変わり果てていた経験が大いに活かされている。特に「ごみの風」はナチスドイツ政権の初期の時点で書かれた掌編だが、ファシズムに駆り立てられた社会を描写しており、短編小説としての完成度も高い。「敵」を書く場合のみ彼の鋭い観察力が制約を受けなかったのは皮肉なものだ。巻末に収録された、生前未発表だった戯曲「ノアの方舟」はトルコのアララト山に埋もれていた聖書に登場するノアの方舟を巡り、アメリカの考古学調査隊や米国の議員、イエスキリストの腹違いの弟を名乗る人物が騒動を繰り広げる内容である。破天荒さやおかしみが第一巻の時期の諸作を彷彿させ、未完に終わっているのが残念だ。
長編『インディゴ』が二〇二一年に邦訳されたオーストリア出身のドイツ語作家クレメンス・J・ゼッツが、このたび短編集『丸いもののもつ慰め』(犬飼彩乃訳/国書刊行会)で再び日本に紹介された。各短編は陰鬱で不安感に満ちており、しばしばオチがないまま幕を閉じる点で共通している。たとえば飛行機の遅延に見舞われてパートナーの家を訪れると、室内に悪臭の漂う見知らぬ男たちが何人も横たわっている。常に視界の端に黒い盲点が見えるようになる。目の不自由な女性と交際し始めて、彼女の家のあちこちで彼女あてと思われる悪口雑言の落書きを見つけてしまう。ノルウェーの島を謎の存在と共に旅する。解説でもグリッチの文学と称されているように、わかりやすい筋書きや論理のないノイズ音楽のような小説ばかりだ。ホラー小説と言い切れるほどの切迫感はないが、存在感のある謎との共存を迫られる短編ばかりだ。
ゲオルギ・ゴスポディノフ『タイム・シェルター』(寺島憲治訳/早川書房)は二〇二〇年にブルガリア語で出版され、英語に翻訳された文学作品に贈られるブッカー国際賞を二〇二三年に受賞している。個人的に、日本語に翻訳される前から大変楽しみにしていた。老人の認知症治療が問題となった現代、クリニック内に昔の時代の部屋を再現することで来院する患者の症状改善を目指す、新しい療法を開発したガウスティンという男がいた。若い頃に彼と付き合いがあった語り手は、彼と共に年代別の調度品を収集し、クリニックで時代別の部屋を充実させていく。ところがこの過去を復活させる試みはやがて世界的なブームとなり、都市単位で過去の衣服・車・生活様式などをまるごと模倣し始めるようになる。模倣はやがてモノにとどまらず、住民の思想や行動までも過去へと引き戻される。そして国家単位の国民投票によって、世界中が良かったはずの昔に戻ろうとするのだ。この設定のもとに想像力の翼を広げ、ブルガリアと欧州を中心に描いた物語だが、ここに書かれた危惧はまちがいなく普遍的である。
(本の雑誌 2026年6月号)
« 前のページ | 次のページ »
- ●書評担当者● 橋本輝幸
1984年生まれ。書評家。アンソロジストとして『2000年代海外SF傑作選』『2010年代海外SF傑作選』、共編書『走る赤 中国女性SF作家アンソロジー』、自主制作『Rikka Zine vol.1』を編集。
現在、道玄坂上ミステリ監視塔(Real Sound)や「ミステリマガジン」新刊SF欄に寄稿中。- 橋本輝幸 記事一覧 »




