作家の業の深さにおののく車谷長吉『癲狂院日乗』

文=東えりか

  • 癲狂院日乗
  • 『癲狂院日乗』
    車谷 長吉
    新書館
    2,860円(税込)
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  • この世の道づれ
  • 『この世の道づれ』
    高橋 順子
    新書館
    2,640円(税込)
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  • 「愛とは何か」を科学する: 人が人を愛するとき、脳と心で何が起きているのか?
  • 『「愛とは何か」を科学する: 人が人を愛するとき、脳と心で何が起きているのか?』
    ローン・フランク,枇谷 玲子
    誠文堂新光社
    2,640円(税込)
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  • 義父母の介護 (新潮新書 1052)
  • 『義父母の介護 (新潮新書 1052)』
    村井 理子
    新潮社
    924円(税込)
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  • 毒親絶縁の手引き: DV・虐待・ストーカーから逃れて生きるための制度と法律
  • 『毒親絶縁の手引き: DV・虐待・ストーカーから逃れて生きるための制度と法律』
    柴田 収,紅龍堂書店,紅龍堂書店
    RUBY DRAGON BOOKS
    2,420円(税込)
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 車谷長吉『癲狂院日乗』(新書館)を読了後、作家とはなんと業の深い生き物だろうと深いため息が出た。

 本書は一九九八年一月に上梓された『赤目四十八瀧心中未遂』(文藝春秋)のあと、四月から一年間書き綴られた日記である。七月に第百十九回直木賞を受賞。普通ならその後にこの日記が出版されてもおかしくないはずが、内容に問題が多いと各出版社から拒絶された曰く付き。車谷の急逝後、妻の高橋順子によって発見されたが、出版まではさらに九年が必要だった。その経緯はあとがきに詳しい。

 車谷は登場人物を本名で綴ったが、出版に当たり名誉を傷つけると判断された人は仮名だ。

 癲狂院とはいわゆる精神病院のこと。車谷は約二年前に強迫神経症を発症し病院通いをしていた。詩人の高橋順子とは四十代後半で結婚した。仲睦まじさは各所に読み取れる。だが強迫神経症の発作は凄まじい。その中で書かれた作品が直木賞を受賞したのだ。

 この時の芥川賞受賞者は花村萬月と藤沢周。なんだかあべこべだなあと思ったことをよく覚えている。

 直木賞を受賞したことで車谷は一躍時の人となる。三年前に芥川賞を逃してからトラウマになっていたことから解放され広々とした気持ちになった、と記されている。続々と重版がかかり、男の花道だと気分が高揚している様は愛らしいが、編集者や友人の露悪的な記述は確かにいい気持ちはしない。

 後の世で車谷文学を研究する上では必読の資料だと思う。さらに出版界の知り合いも多く登場しているから、下世話な興味だが読んでいて驚かされる。

 同日に上梓された高橋順子『この世の道づれ』(新書館)は、夫の激しい日記とはうってかわり異色の私小説作家に寄り添った日常を静かに綴っている。

 四十代後半に結婚した二人は「偏屈と物好きの組み合わせ」と言われた。配偶者を「連れ合い」と呼ぶのが好ましい。その連れ合いは著者に文章の書き方を教授した。二人の関係を「最小の運命共同体」と呼ぶ。

 二十二年連れ添った連れ合いは誤嚥性窒息で妻の留守中に亡くなってしまった。その辛さ、やるせなさは胸に迫る。

 昨年、夫を亡くした私は本書に収められた「いないけど、いる人」というエッセイを読んでしたたか泣いた。ふとした瞬間に記憶が蘇るのは同じだ。

 連れ合い亡き後、足を運んでいるというお遍路八十八カ所が結願することを心から祈る。

 ローン・フランク『「愛とは何か」を科学する』(枇谷玲子訳/誠文堂新光社)の著者は十三年連れ添った夫を亡くしたデンマークのポピュラーサイエンス作家。彼女は配偶者を亡くした痛みに信じられないほど打ちのめされた。

 その痛みは親や恋人を失くすこととは別次元だった。ただひとり、悲しみに沈む中で「愛とは何か」を脳科学、心理学、生物化学の最先端知識を使って追究することを決意する。

 はるか昔から哲学や文学の中で定義づけられていた「愛」。それが現代では科学によって裏打ちされつつある。

 恋の始まりの胸の高鳴りや、人を愛するときにでるホルモンなど、現代では科学的に解析され、浮気の仕組みやソウルメイトは本当にいるのかなど、ビッグデータを使ったアルゴリズムを駆使しマッチングアプリに応用する。仲人さんは今やAIの独壇場だ。

 著者は耐え難い喪失の苦しみが何かを知るため、ある心理士を訪ねカウンセリングを受けていく。彼に語った幼い頃からの愛の遍歴をベースに、その時々の心と身体におこっていたことを、化学、生理学、遺伝学の見地から理解し愛の本質はどこにあるかを探していく。

 同じ哀しみに苦しむ体験者にとって、これから先の何かの手がかりになりそうな一冊だ。

 惜しまれて亡くなる人は幸せなのかもしれない。周りを見渡せば介護問題が犇めいている。

 村井理子『義父母の介護』(新潮新書)は自分の家族の問題を真っ正直に著してきた翻訳家でエッセイストの著者が、喫緊に直面している夫の両親の介護にどう向きあっているかを、赤裸々に語っていく。

 自分の両親、兄を亡くし子ども以外の肉親がいない著者が務めなければならないのは、嫁の立場。とはいえ今まで良好な関係とは言えない義理の関係であっても、認知症と高齢から来る衰えは待ったなしだ。家事と仕事と同時に介護生活が始まる。

 実際私も義母の介護を経験したが、現在の介護保険システムは非常に優れていて、介護される側が望めば実現できるよう出来る限り努力してくれる。

 だがそれも本人たちが協力してくれればこそ。望まなければ何も進まず、むしろ頑なに拒否されてしまう。

 高齢の夫婦であればそれは顕著で、かつて二人で暮らした記憶のもと、その通りに暮らしたいという欲望だけが先走る。

 嫁だけが責を問われる時代は過ぎたといわれても、夫である息子はどこまで役に立つのやら。

 この介護はまだまだ続く。ハラハラしつつ続編を待つ。

 それにしても家族って何だろう。子どもの居ない身では、親の虐待の悲惨さが理解できない。

 最近書店で柴田収監修・紅龍堂書店編著『毒親絶縁の手引きDV・虐待・ストーカーから逃れて生きるための制度と法律』(発行RUBY DRAGON BOO KS/発売瀬谷出版)を見つけ思わず購入。二〇二三年十月にクラウドファンディングによって出版された本のようだ。親だけでなく配偶者などから逃れる術の詳細なマニュアルがケースバイケースで説明されている。国の制度を正しく使い、さらに自分の身を守る方法をきちんと知って欲しい。

(本の雑誌 2024年10月号)

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●書評担当者● 東えりか

1958年、千葉県生まれ。 信州大学農学部卒。1985年より北方謙三氏の秘書を務め 2008年に書評家として独立。連載は「週刊新潮」「日本経済新聞」「婦人公論」など。小説をはじめ、 学術書から時事もの、サブカルチャー、タレント本まで何でも読む。現在「エンター テインメント・ノンフィクション(エンタメ・ノンフ)」の面白さを布教中。 新刊ノンフィクション紹介サイト「HONZ」副代表(2024年7月15日クローズ)。

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