アンソロジー『ヌマヌマ』の濃厚で多彩なロシアに沈む!

文=藤ふくろう

  • ヌマヌマ ; はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選
  • 『ヌマヌマ ; はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』
    ミハイル・シーシキン ほか,沼野充義,沼野恭子
    河出書房新社
    3,520円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • ノスタルジア
  • 『ノスタルジア』
    ミルチャ・カルタレスク,住谷春也,高野史緒
    作品社
    3,300円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • 象の旅
  • 『象の旅』
    ジョゼ・サラマーゴ,木下眞穂
    書肆侃侃房
    2,200円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • ウォーターダンサー (新潮クレスト・ブックス)
  • 『ウォーターダンサー (新潮クレスト・ブックス)』
    タナハシ・コーツ,Ta-Nehisi Coates,上岡 伸雄
    新潮社
    3,080円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto
  • マレー素描集
  • 『マレー素描集』
    アルフィアン・サアット,藤井光
    書肆侃侃房
    2,200円(税込)
  • 商品を購入する
    Amazon
    HonyaClub
    HMV&BOOKS
    honto

 タイトルが出た時「これは読まなければ」と直感し、書影が公開された時には「なるほど、これはやばいやつ」と確信した本がある。沼野充義・沼野恭子編訳『ヌマヌマ はまったら抜けだせない現代ロシア小説傑作選』(河出書房新社)は、ヌマヌマ(ともにロシア文学者である沼野夫妻の一人称複数形)が長年かけて翻訳してきた、現代ロシア小説アンソロジーだ。見た目はかわいげだが、中身は濃厚で多彩なロシアに満ちている。宇宙飛行士ガガーリンの母が読者を予想外の場所へ連れ出す小説、夏の別荘での思い出を美しく描く小説、ロシアの超特急列車が暴走する小説、レーニンを思わせるヤバい男(呼び名はレーちゃん)を家に引き取った夫婦の破滅譚など、幅広い作風の作品が楽しめる。中でも、極貧バラックと壮絶なトイレ話とともに語られる青春譚、アサール・エッペリ「赤いキャビアのサンドイッチ」は強烈だった。ロシアのトイレ事情といえば、米原万里氏のエッセイで読んで「そんな地獄みたいなトイレがこの世に?」と驚愕した思い出があるが、この短編で描かれるトイレもすさまじい。こんな環境下でも若いカップルは輝いており、ギャップが鮮烈な印象を残す。このように収録作品はどれも個性的で、それぞれ忘れがたい。笑顔で親指を立てながら、自信を持って沈んでいけるアンソロジーだ。

 ルーマニアの小説家ミルチャ・カルタレスクの代表作『ノスタルジア』(住谷春也訳/作品社)も、はまったら抜け出せないタイプの中短編集だが、こちらは沼というより、深く暗い地下迷宮のようだ。現実と幻想、夢と記憶の境界が溶けて、現実にいたかと思えば、幻想の領域に迷いこんでいる。プロローグ「ルーレット士」は、狂気のロシアン・ルーレットで命を賭け続けた、伝説的ルーレット士の生涯を描く作品である。弾倉にこめる弾をひとつずつ増やしていくルーレット士の狂気が頂点に達した時、異界への扉が開かれる。鮮やかな色彩を含んだ緻密な描写と、現実から遊離していく迷宮的な語りのコントラストが素晴らしい。夜更けに読みたい、迷宮小説。

 ノーベル文学賞作家ジョゼ・サラマーゴによる『象の旅』(木下眞穂訳/書肆侃侃房)は、ポルトガル史上に実在した象と、その途方もない旅の逸話をもとにしたポルトガル小説だ。16世紀、ポルトガル国王夫妻が、オーストリア大公に象を贈ろうと思いつく。前代未聞の任務を負ったインド人象使いとポルトガル部隊、そして象のソロモンは、ポルトガルからオーストリアへ、地中海を越えアルプス山を越え、旅をする。サラマーゴは、象をめぐり人々の間にうまれる感情を、アイロニーを交えた筆致で描き出す。人々は象に驚き、呆れ、恐れ、敬い、諮り、喝采し、希望を抱いては失望する。そんな人間の感情をよそに、象は食べて寝て、歩き続ける。政治の道具/見世物として利用される象の悲哀、唯一のよそ者であるインド人象使いの孤独、ヨーロッパ王室の身勝手さと狂気、民衆の喝采が交錯して、多彩な光を放つ。これほど奇妙な旅が実在したことに驚き、わずかな史実から想像力をふくらませた作家の手腕にうなる。世の中には、驚嘆すべき物語がたくさんある。

 アメリカで生きる黒人の過酷さを描いたエッセイ『世界と僕のあいだに』で全米図書賞を受賞した作家、タナハシ・コーツによる初の小説『ウォーターダンサー』(上岡伸雄訳/新潮社)は、奴隷制度下の黒人奴隷たちの物語だ。語り手の黒人青年ハイラムは、不思議な能力を持つ奴隷だ。驚異的な記憶能力を持っているが、素晴らしいダンサーだった母の記憶だけが思い出せない。母の記憶がない苦悩を抱えながら、ハイラムは自身の所有者であり父親でもある白人農場主の屋敷で働き、やがて自由を求めて逃亡を試みる。

『ウォーターダンサー』は"自由"と"記憶"の物語だ。奴隷制度の非道の中でも、「家族を分断させる残酷」に焦点を当てている。当時は、白人所有者が黒人家族をそれぞれ別の土地に売り、黒人は突然もう二度と家族に会えなくなってしまう悲劇がよくあった。自分の人生を決められない苦しみ、白人の一存で家族が壊滅させられる痛みが、多くの人々から繰り返し語られる。激痛を伴う記憶から逃れたい苦悩と、記憶を失う苦悩を、コーツはどちらも丁寧に描く。過酷な話だが、過酷一辺倒ではなく、実在した逃亡支援組織「地下鉄道」(コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』に登場)や、伝説的な逃亡奴隷が活躍するほか、思わぬファンタジー展開もあり、エンタメ要素もある。河出書房新社より復刊したオクテイヴィア・E・バトラー『キンドレッド』も、奴隷制時代の南部を舞台にしているので、一緒に読んでもよいだろう。

 アルフィアン・サアット『マレー素描集』(藤井光訳/書肆侃侃房)は、シンガポールに住むマレー系作家による短編集だ。マレー人の会話や生活を切り取った一瞬の情景が、数ページずつ、48の掌編で描かれる。公用語が4つある多言語国家シンガポールでは、マレー語話者は少数派だ。家、食堂、学校、バス、さまざまな場所で、マレー人たちはしばしば不意打ちのように、他者との"溝"に遭遇する。言語や民族が原因の場合もあれば、性格の違いが原因の場合もある。マレー人の文化や慣習に焦点を当てつつ、「マレー人/マレー人以外」といった単純な線引きで終わらせずに、「民族や言語が同じだろうが違おうが、誰とでもズレはあるし、和解もある」と語りかけてくるような、フラットな視点がよい。多言語社会の光と影を、あたたかい目線と鮮やかな描写で描いたシンガポール小説。

(本の雑誌 2022年1月号)

« 前のページ | 次のページ »

●書評担当者● 藤ふくろう

海外文学の感想ブログ「ボヘミアの海岸線」を書いている。IT系メディアの編集者、外資マーケティングと、いろいろ越境しながら仕事している。たまに、分厚い海外文学を読む「ガイブン読書会 鈍器部」を主催。夢は、灯台かハウスボート(水上の家)に住むこと。

藤ふくろう 記事一覧 »