生命と人生の豊饒を語る大作パワーズ『黄金虫変奏曲』

文=藤ふくろう

  • 黄金虫変奏曲
  • 『黄金虫変奏曲』
    リチャード・パワーズ,森慎一郎,若島正
    みすず書房
    5,720円(税込)
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  • パープル・ハイビスカス
  • 『パープル・ハイビスカス』
    チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ,くぼたのぞみ
    河出書房新社
    3,410円(税込)
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  • リャマサーレス短篇集
  • 『リャマサーレス短篇集』
    フリオ・リャマサーレス,木村榮一
    河出書房新社
    3,190円(税込)
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  • チベット幻想奇譚
  • 『チベット幻想奇譚』
    星泉,三浦順子,海老原志穂,星泉,三浦順子,海老原志穂
    春陽堂書店
    2,640円(税込)
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  • メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集
  • 『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国 シルヴィア・プラス短篇集』
    シルヴィア・プラス,柴田 元幸
    集英社
    2,310円(税込)
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 リチャード・パワーズによる噂の大作『黄金虫変奏曲』(森慎一郎・若島正訳/みすず書房)が、ついに刊行された。4つの塩基から膨大で多様な生命を織り上げる遺伝子と、その謎を解読しようとする生物学を主軸に、表舞台から姿を消した生物学者の謎、生物学者の人生を知ろうとする男女が、二重らせん構造のように絡み合って進む長編小説である。文学、音楽、科学などを自由に横断していき、無関係に見えるエピソードがどんどんつながっていく。中でも、遺伝子解読、ポー『黄金虫』の暗号解読、バッハのゴルトベルク変奏曲は、主要モチーフとして繰り返し現れる。遺伝子も音楽も言葉も、わずかな構成要素とシンプルな構造から、圧倒的な多様性がうまれる点でつながっている。生命、人類、登場人物と、ピントをマクロからミクロへ切り替えながら、生命と人生の豊饒を語っていて、濃密でありながら、さわやかさも感じる。翻訳を待った甲斐がある読書体験を味わった。

 チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『パープル・ハイビスカス』(くぼたのぞみ訳/河出書房新社)は、ナイジェリアを代表する作家のデビュー長編だ。キリスト教と規律を重んじる厳格な父に育てられたナイジェリア人少女が、クーデター危機をきっかけに、叔母のもとに預けられる。イボ族(ナイジェリアの主要民族)の伝統文化を嫌い、西洋主義を家族に強いる父親から離れ、自由な気質の叔母のもとで、少女は伝統文化や自由に触れ、世界の多様さと自己を見出していく。英語とイボ語、キリスト教とチ(守り神)信仰、親の庇護と自立、抑圧と自由、といった、複数の対立と共存を組みこみながら、ナイジェリア人家族と少女の物語がみごとに展開されている。語りのうまさも素晴らしい。

 コロンビア人作家ピラール・キンタナによる『雌犬』(村岡直子訳/国書刊行会)は、"不妊"をめぐる愛憎を描く。コロンビア海岸沿いの寒村に住む女は長年、不妊に悩んでいた。高額の民間療法をはじめとして、考えられる手段を尽くしたが妊娠せず、"女が乾く年"である40歳を目前にして、生後まもない雌犬を飼い始める。女は雌犬を溺愛するが、雌犬の家出をきっかけに関係が不穏になっていく。子を授からないつらさ、夫や子を持つ女への苛立ち、孤立といった、不妊に悩む女性が抱く苦悩から、理想と現実との落差、母娘の愛憎へと、感情のうねりをダイナミックに描く。特に、溺愛対象の"娘"が"女"になった時の展開が強烈。海沿いの村には湿気と嵐と死の予感が満ちており、この土地の空気が、女の湿った濃密な激情とよく合っている。湿気が満ちる夏におすすめだが、不穏犬小説なので、犬好き読者は注意。

 フリオ・リャマサーレス『リャマサーレス短篇集』(木村榮一訳/河出書房新社)は、現代スペイン文学を代表する作家による自選短編集だ。長編小説『黄色い雨』『狼たちの月』は、死と滅びの静謐な印象が強いが、今回の短編集では、より多彩で異なった作風の作品が読める。短編集『僻遠の地にて』から選ばれた作品は、強烈な執着や思い込みに囚われた人たちの悲喜劇を描く。登場人物は、自身のオブセッションに振り回され、時に破滅的な結果に向かって突進する。ブラックユーモアと緊張感があふれる展開に「リャマ氏はこういう作風も書けるのか」と新しい一面を見つけた思いだ。短編集『いくら熱い思いを込めても無駄骨だよ』から選ばれた作品は、滅びゆく場所や記憶を描く作品が多く、哀愁を帯びた語りは、長編小説の雰囲気に通じるものがある。哄笑リャマに哀愁リャマ、いろいろなリャマサーレスを楽しめる1冊。

 ラシャムジャ『路上の陽光』(星泉訳/書肆侃侃房)は、チベットに暮らす若者の世界を描く、現代チベット文学の短編集だ。チベットは、伝統的な文化と中国の影響がせめぎあう、複雑な土地だ。その特性を表すかのように、作家はチベットの美しい面と不穏な面を描く。表題作は、首都ラサを舞台にした青春小説だ。地方からラサに出てきた若者たちが、日雇い仕事の依頼を待ちつつ、仲間と交流して恋愛関係を育む。青春模様の裏には、若者を搾取する大人の影や格差社会が見え隠れし、複雑な余韻を残す。村でただ一人の羊飼いである少年が羊を盗まれてしまう「最後の羊飼い」は、伝統が消えゆく哀切を描く。この春はチベット文学が豊作で、アンソロジー『チベット幻想奇譚』(星泉、三浦順子、海老原志穂訳/春陽堂書店二四〇〇円)も刊行された。こちらは幻影や夢、異界といったテーマの短編を収録しており、両方を読むと、チベットが持つ多様な顔に驚かされる。

 ピュリッツアー賞を受賞した早逝のアメリカ人詩人、シルヴィア・プラスの短編小説集『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』(柴田元幸訳/集英社)は、訳者が選んだ短編8作品を収録する。プラス作品のうち、短編に焦点を当てた翻訳書は初。表題作は作家の死後50年以上が経って発見されて大きな話題になった、寓話的な小説だ。少女が両親に乗るよう言われた列車に乗りこんで、乗り合った女性と話し始める。世間話はやがて、じわじわと不穏さをはらむ。行き先を知らない少女、女や乗務員のほのめかしの、静かで不穏な雰囲気が印象的。「ブロッサム・ストリートの娘たち」は、大型ハリケーンが来た日の病院が舞台の作品で、会話が軽快で読んでいて楽しい。訳者が「詩にも長篇にもない独自の魅力」があると述べているように、プラスらしさはあまり感じないものの、短編集としての多様さと面白さは十分。短編集から読み始めて、詩集を読むのもよいだろう。

(本の雑誌 2022年8月号)

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●書評担当者● 藤ふくろう

海外文学の感想ブログ「ボヘミアの海岸線」を書いている。IT系メディアの編集者、外資マーケティングと、いろいろ越境しながら仕事している。たまに、分厚い海外文学を読む「ガイブン読書会 鈍器部」を主催。夢は、灯台かハウスボート(水上の家)に住むこと。

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