記憶の儚さとしぶとさを描くE・ラスコヴィッチ『アイダホ』

文=藤ふくろう

  • アイダホ (エクス・リブリス)
  • 『アイダホ (エクス・リブリス)』
    エミリー・ラスコヴィッチ,小竹 由美子
    白水社
    3,960円(税込)
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  • フォレスト・ダーク (エクス・リブリス)
  • 『フォレスト・ダーク (エクス・リブリス)』
    ニコール・クラウス,広瀬 恭子
    白水社
    3,960円(税込)
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  • この夜を越えて
  • 『この夜を越えて』
    イルムガルト・コイン,田丸理砂
    左右社
    2,750円(税込)
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  • 果樹園の守り手
  • 『果樹園の守り手』
    コーマック・マッカーシー,山口和彦
    春風社
    2,750円(税込)
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  • 静寂の荒野【ウィルダネス】
  • 『静寂の荒野【ウィルダネス】』
    ダイアン・クック,上野 元美
    早川書房
    4,070円(税込)
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 忘れたくなるほどつらい喪失の記憶を、忘れるがままにしておくか、それとも忘却の淵からすくい上げるか。この問いに向かい合う小説、エミリー・ラスコヴィッチ『アイダホ』(小竹由美子訳/白水社)が突き刺さった。突然壊れて失ってしまった日常の"記憶"をめぐる物語である。ある女性音楽教師の夫は再婚者で、壮絶な過去があった。彼にはかつて妻と2人の娘がいたが、「妻による娘殺し」という恐ろしい事件ですべてを失った。家族も日常もなくなり、残されたのは記憶と痛みだけ。その記憶も、若年性認知症にかかった男は忘れかけている。音楽教師の女は、夫の痛みと病に寄り添いつつ、失われゆく記憶の欠片を集め始める。作家は、"記憶"というテーマを、繰り返し変奏して描く。記憶を失う男、男が失う記憶を想像して補う女、架空の共通記憶をつくる女たちなどにより、記憶は想像と交わり、形を変えながら、当事者から他者へと受け継がれていく。記憶の儚さとしぶとさを、静謐に描く筆致が見事で、とりわけラストシーンには唸った。あのさりげない会話が成り立つまでの、途方もない過程が『アイダホ』だからだ。いい記憶小説を読んだ。

 ニコール・クラウス『フォレスト・ダーク』(広瀬恭子訳/白水社)は、失った自己を探し出そうとする大人たちの物語だ。40代女性の小説家と、辣腕弁護士だった老年男性、2人の物語が並行して進む。どちらも、社会的に成功しているものの、自分の人生はこれでいいのかと疑問を抱いている。生き迷う2人はやがて、自分の原点であるイスラエルのテルアビブへと向かう。外的世界との不和から、物理的/精神的に放浪し、内的世界の奥へと深くもぐっていく思索の道のりを、繊細に描いた小説だ。社会的に求められる自分から離れ、どんどん身軽になって、精神の荒野へと突き進んでいく姿は、砂漠の蜃気楼あるいは幻想文学のような趣がある。旧約聖書の舞台であり、カフカの原稿が眠る場所でもあるイスラエルという土地は、なるほど確かに、内面の奥深くへ突き進む土地としてふさわしいように思える。それぞれの砂漠に向かった2人の、異なる結末が印象に残る。心に荒野を持つ人のための小説。

 イルムガルト・コイン『この夜を越えて』(田丸理砂訳/左右社)を読むと、1930年代ドイツの「ナチとともに暮らす異様な日常」が見えてくる。語り手である19歳のドイツ人少女は、熱心なナチ党員である叔母の家を出て、都市で新しい生活を始める。友人との買い物や飲み会など、彼女の生活はごく普通だが、あらゆる場面にナチが入りこんでいる。酒場でナチ党員と出会い、飲みの席で優生思想が語られ、ヒトラーの訪問を町中が熱狂的に出迎える。さらに、ナチに批判的な人が仕事を失い、密告が横行する。町を包む空気の異様さと、ひたひたと迫る暴力の気配が、少女の視点を通してなまなましく実感できる。当時の市民にとって、いかにナチが身近で、生活と不可分だったかがわかる。じつに怖い"空気"を描いた小説だが、少女の意志には救われた気持ちになった。

 ノーベル賞の有力候補と評されるカナダの詩人、アン・カーソンの代表作『赤の自伝』(小磯洋光訳/書肆侃侃房)は、そのスタイルの独自性に驚かされた。物語の土台は、古代ギリシア詩人のステシコロスが残した詩の断片「ゲリュオン譚」。すべてが赤い怪物ゲリュオンが、英雄ヘラクレスと出会って殺されるまでを描いた詩をもとに、カーソンは詩と小説を融合させた"ヴァース・ノベル"という形式で、大胆に語りなおす。どれぐらい大胆かというと、原文の訳出で「タクシー」が出てくるし、現代を舞台にした語り直しパートでは、ゲリュオンとヘラクレスが同性愛の恋人同士になっている。展開の予測がぜんぜんつかないうえに、言葉とイメージの躍動感がすごいので、ずっと驚きながら読んでいた。

 現代アメリカ文学を代表する作家のデビュー作、コーマック・マッカーシー『果樹園の守り手』(山口和彦訳/春風社)がついに邦訳された。1930年代の米国アパラチア山脈南部を舞台に、少年、ウイスキー密輸をする男、果樹園を見守る老人という、3人の男たちの人生が交わる物語だ。代表作群と比べれば、暴力度もプロットの強烈さも控えめだが、括弧がない会話文スタイルや、硬質な比喩が乱反射する描写はデビュー作から健在で、マッカーシーは最初からマッカーシーなのだと知った。夕日で燃えるように輝くナイフのような独特の美しさを湛える、マッカーシーの文章を堪能できる。

 ダイアン・クック『静寂の荒野』(上野元美訳/早川書房)は、管理された大自然=荒野で、生き延びようとする人たちを描く。舞台は、大気汚染で都市が荒廃した近未来。政府に許可されたわずかな人類のチームが、人間禁制の自然地区ウィルダネス州で、奇妙な原始生活を営んでいる。生活スタイルは原始的な狩猟生活そのもので、容赦なく人が死ぬ。一方で彼らは管理されており、自然保護のためにマニュアルを順守しなければならない。都市から逃れてきた母と幼い娘の関係は、大自然で長く暮らすうちに、守る者・守られる者の関係から、愛憎入り乱れる複雑な関係に変わっていく。サバイバルものにありがちなデスゲーム方面ではなく、母娘の愛着関係を追う展開が独創的だ。近づいては離れる距離感と心理の変遷がダイナミックで、サバイバル生活パートより、よほどスリリングである。最も近い人だからこそ、愛も期待も、恨みも失望も深くなる。原始生活サバイバルもののようでいて、一味違う癖のある小説だ。

(本の雑誌 2022年12月号)

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●書評担当者● 藤ふくろう

海外文学の感想ブログ「ボヘミアの海岸線」を書いている。IT系メディアの編集者、外資マーケティングと、いろいろ越境しながら仕事している。たまに、分厚い海外文学を読む「ガイブン読書会 鈍器部」を主催。夢は、灯台かハウスボート(水上の家)に住むこと。

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