『ヒア・アイ・アム』が語る私たちの人生

文=林さかな

  • ヒア・アイ・アム
  • 『ヒア・アイ・アム』
    ジョナサン・サフラン・フォア,近藤 隆文
    NHK出版
    5,280円(税込)
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  • とんがりモミの木の郷 他五篇 (岩波文庫)
  • 『とんがりモミの木の郷 他五篇 (岩波文庫)』
    Jewett,Sarah Orne,ジュエット,セアラ・オーン,弘美, 河島
    岩波書店
    1,012円(税込)
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  • 目覚めの森の美女 森と水の14の物語
  • 『目覚めの森の美女 森と水の14の物語』
    ディアドラ・サリヴァン,田中 亜希子
    東京創元社
    2,420円(税込)
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 小説を読めば読むほど、書かれていることの多くは人生のことだと感じる。これは自分のことを書いているのだと親近感をもち、どこの家にもおきていることなのだと納得する。『ヒア・アイ・アム』(ジョナサン・サフラン・フォア/近藤隆文訳/NHK出版)はユダヤ系アメリカ人一家の物語が中心に据えられている。八四四頁もの大部な本だが、読み始めてすぐに海外文学を読んでいるという感覚が薄れていった。テレビ脚本家で小説家でもあるジェイコブと建築家の妻、ジュリア。この二人の会話を読んでいると、夫婦のことは夫婦にしかわからないとは、よくいわれる言葉ではあるが、案外そうでもないなと思えてしまうほどだ。

 ジェイコブの携帯電話をみてしまったジュリア。そこには、ジュリア以外の女性に対しての猥褻な言葉があり、彼女は夫にそれを問い詰める。話をしているうちに、本筋から離れ、飼っている犬の糞について、その犬は誰の犬かでののしり合う。ジェイコブはそこで十六年の結婚生活で初めてジュリアに大声をあげて叫んだ。長年一緒に暮らしていくなかで、掃除しきれていない塵がつもり、うっとうしく思い、ふとしたことでグチャグチャになり、爆発する。子どもたちも、成長していく中でまっすぐ進まないことも多い。学校でのトラブルは常に親の頭を悩ませる。いや、子どもだけではない。自分たちの親もまた頭の痛いことをすることが往々にしてある。自分ですら聞いたことのない声がでるときは、複雑な思いが噴火してしまうことなのだ。

 普遍的な人生が技巧をこらして語られるなか、印象に残るのは節目に登場するスピーチ。ジェイコブの母が息子とジュリアの結婚式の時に語ったスピーチは心にずっと残っている。
「病めるときも病めるときも。それがおまえたちのために願うことです。奇跡を求めたり期待したりしないように。奇跡などありません。もうないのです。いちばん深い傷の治療法もありません。あるのは、おたがいの痛みを信じ、そのために存在するという薬だけです」

 言葉のもつ力と深みを感じるラストが待っている。

『とんがりモミの木の郷 他五篇』(セアラ・オーン・ジュエット/河島弘美訳/岩波文庫)は、静かにまっすぐ日常を小説に仕立てている。スケッチをするように、日々を描写し、周りの自然を描き、安寧を堪能できる。

 表題作は語り手の「わたし」が文筆家で、夏の間の滞在先としてミセス・トッドの家に住むようになる。ミセス・トッドは薬草園をもち、薬をつくって必要ある人たちに分けて喜ばれている。「わたし」とミセス・トッドは程よい距離感で親密になり、海辺の町に住む人たちとの交流も深まっていく。悪い人は出てこず、ドラマチックな展開もない。住人はひとりずつ丁寧に紹介されるので、読んでいるだけで彼らに近しさをもち、ひととき休暇を味わっているかのような新鮮な楽しみを感じる。

 リトルペイジ船長は船から引退しても船長と呼ばれており、齢八十を超えている。読書が大好きでなかでも詩をこよなく愛し、自ら「わたし」を訪問し、過去の思い出──難破したときの話を細部にわたってする。住人それぞれに語るべき話があり、「わたし」はそれに耳を傾ける。心おだやかに読めるのでリラックスしたいときにおすすめの短編集。

『目覚めの森の美女 森と水の14の物語』(ディアドラ・サリヴァン/田中亜希子訳/東京創元社)は「シンデレラ」「白雪姫」「人魚姫」など、よく知られたおとぎ話を再話したものだが、おもしろおかしく再話したものではなく、どの話にも意外性をもたらすひねりがあり、小気味よい。

 つい元の話にでてくる主人公を探してしまうが、話によって、光をあてられている人物が変わっている。

「きこりの花嫁」は赤ずきんが下敷きにされており、おばあちゃんの元へずきんをかぶって出かけた女の子はもう大人の女性になって登場している。家をきれいに整え、パンを焼き、夫の帰りを待つ。小さい頃、自分に何が起こったのかはぼんやりとしか覚えていない。数頁の話の中に濃密な女の性が語られる。

 端正な語り口と、そぎ落とされた言葉は詩人の作家ならではの凄みがあり、声に出して読むとそれが一層わかる。

『サブリナ』(ニック・ドルナソ/藤井光訳/早川書房)は、グラフィックノベル初のブッカー賞にノミネートされた話題作品。

 ある日、サブリナが失踪してしまい、恋人テディや家族が探しだそうとするも、いっこうに見つからない。憔悴しきったテディは幼なじみのカルヴィンのもとに身を寄せる。おもしろいのは、サブリナの失踪から関わりのある人物が波紋のように描かれていくところだ。カルヴィンも直接サブリナを知っていたわけでもないのに、テディを通じて影響を受けていく。空軍基地で働いている彼は毎日調査票に健康状態の記録をとるのだが、睡眠時間、アルコール摂取量、いまの気分、その定型書式が、定期的に挿入され、記録された数字のみで、カルヴィンの状態変化が伝わってくる。

 見開きページにコマ割された大きさは、おおよそ等分で、人物の表情も単調に描かれ、そこに起きているできごとだけが、大げさな装飾なしに浮かび上がる。抑えた色調もクセになる吸引力がある。

 事件によって晒される人物は常に変わっていく。次に起きる事件の人物にターゲットはバトンタッチされる。それぞれの人生は続く。ラストのもたらす空気感は『ヒア・アイ・アム』に通じるものを感じた。

(本の雑誌 2020年1月号掲載)

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●書評担当者● 林さかな

一九六七年北海道生まれ。カナダ、京都、名古屋で生活。いまは東北在住。好きな詩:エミリー・ディキンソン「真実をそっくり語りなさい、しかし斜めに語りなさい――」

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