絢爛たる比喩の千本ノック『パラディーソ』に溺れる!
文=石川美南
ラテンアメリカ文学の伝説的作品として翻訳が待たれていたホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(旦敬介訳/国書刊行会)が、重い。内容の話ではない。物理的な重量のことだ。うちで計ってみたら九六二グラムあった。六〇〇ページ超の二段組。書店で手に取って購入を躊躇した人も多いかもしれないが、長く楽しめる本なので、手元に置いて損はない。
革命前のキューバ。ホセ・エウヘニオ・セミー大佐の息子ホセ・セミーは、類まれな体力と胆力を兼ね備えた父に似ず、喘息持ちで繊細な少年である。物語は、ホセ・セミーとその両親に連なる一族の鬱然たる歴史を辿りつつ、彼の友情と成長を描いていく......と簡単にまとめてみたが、本書の主役は、絢爛豪華な比喩それ自体かもしれない。たとえば、こんな一節。
〈時間は液体状の物質のように、一番遠い祖先の顔を、まるで覆面のように徐々に覆っていくものだが、あるいはまた正反対に、その同じ時間が這いつくばって、沼地にほとんど吸収されてしまう場合もあり、するとその祖先の人物像はふくらんでいき、(中略)本人よりも後まで生き延びた血の滴のように反応して永遠に凍りつき、浴室の鏡に映った星に強烈なびんたをくらわせることになったりするようだ。〉(第四章)
要約すれば「祖先の人物像は時とともに薄れたり膨らんだりする」というだけの内容に、これほど過剰な修飾が付いている。はじめの「時間は液体状の物質のように」を読み流していると、「その同じ時間が這いつくばって」辺りで混乱することになるだろう。単なる比喩だったはずの「液体状の物質」が実体化し、しかも、幾分擬人化されている(こういう部分は、たぶん笑って読んでいい)。他のページも、濃厚な比喩のオンパレード。五感をフル活用して読み解く必要があるため、なかなか先に進まない。加えて小説全体の構成も直線的ではないので、しばしば筋を見失う。しかし、手探りで読み進めていくと、時々驚くほど鮮烈な比喩や場面に出くわす。リアルタと子どもたちがボール遊びに興じるシーンはぞっとするほど美しいし、悲劇的なエピソードの直後にあけすけな性的冒険パートが出てくるなど、笑いどころも多い。一旦文体に馴染んでしまえば、軽やかな本に思えてくるから不思議だ。
巻末には本書を二十年かけて全訳した旦さんによる解説・家系図・各章の概要が付いている。序盤で挫折しそうになった人は、先に解説を読むと気持ちが楽になるかも(私はなりました!)。
さて、狂騒的な『パラディーソ』とは対照的に、ローベルト・ゼーターラー『野原』(浅井晶子訳/新潮社)は、静かな筆致が魅力だ。
オーストリアの小さな町。墓地のベンチに腰掛けた一人の男が、死者の声に耳を傾けている。二十九人の死者たちの声を順々に聞き取るうち、徐々に町全体の歴史が浮かび上がってくる。
質実剛健な佇まいは既刊の『ある一生』にも通じるが、本書には、そこはかとない不穏さも漂っている。死者たちが切々と語る後悔や、取り返しのつかないすれ違いが切ない。
『首相が撃たれた日に』(母袋夏生・広岡杏子・波多野苗子訳/河出書房新社)は、イスラエルの代表的な作家の一人、ウズィ・ヴァイルの作品集。日本版オリジナル編集で、短編、掌編、コラムなど十九編が収められている。
兵役や断食、テロなど、日本の日常とは異なる単語もちりばめられているが、登場人物たちは遠方に暮らす友のように親しみやすく、イスラエルの人々が一気に身近に思えてくる。「なあ、行かないでくれ」では、ある夫婦の出会いと別れがしみじみと描かれる一方、近未来SF仕立ての「もうひとつのラブストーリー」では、イスラエル建国百周年記念にヒトラーのアンドロイドが製造されるという、仰け反るようなブラックユーモアが炸裂。「嘆きの壁を移した男」は、ままならない現実と温かなユーモアが同居している。
ヤングアダルト向けの作品だが、『侍女の物語』×『蠅の王』というコピーが気になる人にはキム・リゲット『グレイス・イヤー 少女たちの聖域』(堀江里美訳/早川書房)もおすすめ。
グレイス・イヤーとは、ある架空の郡で十六歳の少女たちに課される通過儀礼のこと。彼女たちは一年間、人里離れたキャンプでサバイバル生活を送り、そこで「男を惑わせる魔力」を使い切ってこなければならない。主人公ティアニーは持ち前のガッツでグレイス・イヤーを生き抜こうとするが、仲間は密猟者に狩られ、あるいは心を乱して自滅し、一人ひとり減っていく。一年後、ティアニーが知る彼女たちの真実とは──。
正直、大人の読者としては若干ご都合主義っぽく見える展開もあるにはあるのだが、ダークな設定に惹かれてずんずん読んでしまう。そして、この物語のおぞましさは、私たちの世界のおぞましさでもある。読み終えた後も、長く引きずる一冊だ。
ジャンル分けが難しいが、とにかく楽しいのがレベッカ・ソルニット『オーウェルの薔薇』(川端康雄・ハーン小路恭子訳/岩波書店)。鋭い文明批評で知られるジョージ・オーウェルは、庭仕事を愛する人でもあった。本書は、そんな意外な視点からオーウェルの人生と著作を読み直す一方、自然というものがいかに政治と不可分であるかを解き明かしていく。オーウェルの評伝、薔薇についての考察、スターリンが植えさせたレモンのエピソード......。寄り道を繰り返すソルニットの筆致は、読者の思考のそぞろ歩きをも促す。私は読んでいる途中で無性に土に触りたくなり、真冬の戸外で猛然と草むしりを始めたのだった。
(本の雑誌 2023年2月号)
- ●書評担当者● 石川美南
外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。
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