ルーツを辿り、世界を手繰り寄せる『彼女はマリウポリからやってきた』が凄い
文=石川美南
手元に残るのは、母の写った三枚の写真。それにウクライナの婚姻証明書と、ドイツの就労証明書のみ。ナターシャ・ヴォーディン『彼女はマリウポリからやってきた』(川東雅樹訳/白水社)は、ある日、半世紀以上前に若くして自死した母の名をロシア語の検索エンジンに打ち込んだところから始まる。わずかな手がかりを頼りに母の来歴を辿る調査は、いつしか母のみならず、血脈の人々の多様な人生を手繰り寄せることになる。
昨年来、戦争によって何度も名を聞くことになってしまったマリウポリだが、そこに刻み込まれた歴史を、私はほとんど知らなかった。多民族都市として発展してきたこと、ロシア革命による社会の激変、飢饉、第二次世界大戦中に強制労働者としてドイツに連行された人々の運命、そのどれも。過酷すぎて思考停止に陥りそうなほど壮絶なエピソードの数々を、ヴォーディンはまっすぐに、ときに辛辣に綴っていく。
一応ノンフィクションだが、作者自身が時として思い込みに囚われたり、語る順序をコントロールしたりと「信頼できない語り手」的な振る舞いをする部分もあり、読み心地は小説的。自伝と小説的な語りが混ぜ合わさったオートフィクションと呼ぶのが適切かもしれない。今、まさに読むべき一冊だ。
紹介のタイミングがやや遅くなってしまったが、エステル=サラ・ビュル『犬が尻尾で吠える場所』(山﨑美穂訳/作品社)も、ルーツを巡る傑作小説。パリで生まれ育った〈姪〉が、フランス領アンティル(カリブ海の諸島)出身の二人の伯母と父親を訪ね、これまでの人生について聞いて回る。黒人と白人。フランス語とクレオール語。グアドループ島とフランス本国。〈姪〉の生きる時代と伯母たちが生きてきた時代。異なる要素が、生き生きとした話し言葉によって結び合わされていく。
ルーツを辿って世界にアクセスする自伝的小説という意味では『彼女はマリウポリからやってきた』と共通しているし、本書に描かれる人生も相当過酷ではあるのだが、その語りは「マリウポリ」と比べて圧倒的に明るい。何と言っても、型破りなアントワーヌ伯母が饒舌に語る虚々実々のパートが絶品。往々にして食い違う伯母たちと父の回想を丁寧に束ねていく〈姪〉の誠実さが、温かな読後感につながっている。
多和田葉子『パウル・ツェランと中国の天使』(関口裕昭訳/文藝春秋)は、若き研究者と中国系らしき青年がベルリンの街角で出会い、パウル・ツェランの詩について語り合う奇妙な物語。「なぜ多和田葉子がこの欄に?」と思う人がいるかもしれないが、本書は多和田葉子がドイツ語で書いた小説を関口裕昭が日本語に訳した、れっきとした翻訳小説。本文にはパウル・ツェランの詩句やモチーフがちりばめられ、さらに、ツェランの研究者である関口氏による膨大な注釈が付されている。ツェラン・多和田・関口の三者が作り出す巨大な鏡の迷路を堪能してほしい。
リチャード・ブローティガン『ここに素敵なものがある』(中上哲夫訳/百万年書房)は、『アメリカの鱒釣り』『西瓜糖の日々』で知られるブローティガンの詩集。一九九一年刊の『リチャード・ブローティガン詩集』(思潮社)を改訳し構成も見直した新版で、旧版より訳語を切り詰め、さらにシャープに仕上げている印象だ。
七年間の不幸の影
他人の顔の余りものでつくられた顔には
鏡の欠片を寄せ集めた鏡が必要だ。
溜め息をそのままスケッチしたような詩句に惹かれる。
アイルランド文学を二冊。
サリー・ルーニー『ノーマル・ピープル』(山崎まどか訳/早川書房)は、アイルランド西部の小さな町で暮らす高校生・コネルとマリアンのもどかしい関係を描く。二人は同じ名門大学に進学するが、入学後、二人の力関係は逆転する──。あらすじを読んで、「若い男女のくっついたり別れたりの話かあ。とりあえずパスで良いかな?」と思った人もいるかもしれない(すまない、私がそう思った)。しかし本書は、若者たちの生々しい心理描写に加え、暴力や格差などシビアな現実をこれでもかと詰め込んだ、劇薬のような小説。不器用な人たちの内面にぐいぐいと入り込む筆致が実にエグく、ページを繰る手が止まらなかった。
アン・エンライト『グリーン・ロード』(伊達淳訳/白水社)は、ある家族の二十五年間に亘る物語。大人になり別々の人生を歩む四人の子どもたちの元に、実家の母から、家を売りに出すという報せが届く。久しぶりに一堂に会した家族。しかし、互いの人生に対する違和感はどうしても拭えない。第一部は子どもたち+母それぞれを主人公にした連作短編のよう。舞台はニューヨークやマリへと飛ぶが、どこにいても彼らの周囲にしっとり濡れたような空気が漂うのは、故郷・アイルランドの風土のせいだろうか。全員がクリスマスに集合する第二部では、家族ゆえの苛立ちや不満が噴出して息苦しいほどだが、徐々に変化を受け入れていく彼らの姿に、少しだけほっとする。
岩波文庫で二ヶ月ごとに出ていたヤン・ポトツキ『サラゴサ手稿』(畑浩一郎訳/岩波文庫)が、ついに完結。この全訳版が出るまでの数奇な経緯をご存じない方は、ぜひ検索を。十八世紀生まれのポーランド貴族による奇想天外な冒険物語。アラビアン・ナイトのような入れ子構造の語りと、お正月に国立劇場でかかる歌舞伎のように派手な展開が楽しい。
(本の雑誌 2023年4月号)
- ●書評担当者● 石川美南
外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。
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