信頼できないのは語り手か、それとも?

文=石川美南

  • トラスト―絆/わが人生/追憶の記/未来―
  • 『トラスト―絆/わが人生/追憶の記/未来―』
    エルナン・ディアズ,井上 里
    早川書房
    3,960円(税込)
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  • オレンジ色の世界
  • 『オレンジ色の世界』
    カレン・ラッセル,松田 青子
    河出書房新社
    3,080円(税込)
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  • 夜の潜水艦
  • 『夜の潜水艦』
    陳 春成,大久保 洋子
    アストラハウス
    2,420円(税込)
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  • あなたのものじゃないものは、あなたのものじゃない
  • 『あなたのものじゃないものは、あなたのものじゃない』
    ヘレン・オイェイェミ,上田 麻由子
    河出書房新社
    3,190円(税込)
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  • 終わりのない日々 (エクス・リブリス)
  • 『終わりのない日々 (エクス・リブリス)』
    セバスチャン・バリー,木原 善彦
    白水社
    3,740円(税込)
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 エルナン・ディアズ『トラスト─絆/わが人生/追憶の記/未来─』(井上里訳/早川書房)を、夢中で読んだ。
 
まず、第一パート「絆」からして面白い。主人公ベンジャミン・ラスクは類まれな投資のセンスで一九二〇年代のニューヨーク金融界を席捲する。一方、妻ヘレンはベンジャミンとの夫婦関係に孤独な者同士の連帯を見出していたが、次第に精神を失調していく。このパートの語り口はエレガントかつ悲劇的で、『グレート・ギャッツビー』の世界を思わせる。

 ただし、本書はそこで終わりではない。「絆」に続いて「わが人生」「追憶の記」「未来」という、語り手も文体も異なる三つの手記が......と書いた時点で、勘の良い人は「おっ、これは信頼できない語り手モノだな?」と察してしまうかもしれない。はい、正解です(何せタイトルもトラストだものね)。正解、ではあるのだが、本書は各パートの捻りの利かせ具合が絶妙で、最後までモヤモヤと驚きの波状攻撃が続く。フィクションと真実、事実と思い込みの境界線を何度も引き直すうち、本当に信頼できないのは私=読者自身の固定観念なのかもしれないと思い至る。第二パート以降の流れを知らずに読んだ方がより楽しめると思うので、可能な限り予備知識を入れずに読み始めてほしい。二〇二三年ピューリッツァー賞受賞作。

 チャーミングな短編集を、刊行順に三冊。

 カレン・ラッセル『オレンジ色の世界』(松田青子訳/河出書房新社)は、ファンタジックな設定を取り入れていながら「あー、これ現実にあるやつだわー」と頷いてしまうリアルに嫌な感じがすばらしい。表題作は悪魔に授乳する羽目になる「新米ママ」の物語だが、新米ママとベテランママの微妙な態度の違いが実に生き生きと描かれていて、思わず「ひゃっ」と声が出た。間違ったパーティに紛れ込んでしまった女の子たちの恐ろしい一夜を描く話では、女の子同士の格差にヒリヒリさせられるし、沼地で発見された二〇〇〇年前の〈沼ガール〉に熱烈な恋をする少年の話では、思春期の勘違いぶりが心に残る。

 中国で圧倒的支持を得ているという新鋭・陳春成の『夜の潜水艦』(大久保洋子訳/アストラハウス)は、表題作のほか、小さな寺に隠された碑をめぐる「竹峰寺」、レニングラードを舞台にした究極の芸術賛歌「音楽家」など、想像力と芸術へのピュアな愛に満ちた八編を収録。中国の古典文学のように古怪な雰囲気を漂わせたかと思えば、現代を生きる若者の等身大の悩みにも寄り添ってくれる柔らかな語りが魅力だ。潜水艦と言うと、どうしても最近現実に起きた痛ましい事故を想起してしまうのだが、本書における潜水艦は、空想の大海に投げ込まれたきらめく硬貨のような存在。人懐こくてファニーなキャラクター(ウイニングイレブンをたしなむ僧や、人に化けて『アバター』を見にいくキツネ!)がひょっこり顔を出すところもポイントだ。

 さて、鮮烈かつ軽快な『オレンジ色の世界』、端正で親しみやすい『夜の潜水艦』と比べると、ヘレン・オイェイェミ『あなたのものじゃないものは、あなたのものじゃない』(上田麻由子訳/河出書房新社)は、説明が難しい。

 たとえば「本と薔薇」。「むかしむかし、カタルーニャの教会でひとりの赤ん坊が......」という書き出しこそ古き良き成長譚といった風情だが、修道士に育てられたモンセラートが洗濯係として働き始め、ある画家に洗濯物を届けるようになる辺りから話の筋道が見えなくなる。画家の身の上話に横滑りし、今度はモンセラートの母が遺した手紙に飛び......。「ちょっと待ってその人誰?」「さっきの話の続きは?」と混乱するのだが、振り落とされそうなドライブ感が心地良く、すっかり引き込まれて読むうち、いつしか登場人物たちの生傷に手が触れていたことに気づいてぎょっとする。人形遣いの学校の不気味な人間模様を描く「あなたの血ってこのくらい赤い?」や、姉妹団と兄弟団の抗争を描く「ケンブリッジ大学地味子団」も強烈。

 ヘレン・オイェイェミはナイジェリア出身、イギリス在住の作家。収録されている九編はそれぞれ趣が異なるが、全て鍵が(文字通り)キーになっており、登場人物も一部リンクしている。何せ語りの癖が強いので万人受けするかどうかはわからないが、私は大好きです。

 最後にご紹介するのは、セバスチャン・バリーの長編『終わりのない日々』(木原善彦訳/白水社)。

 十九世紀半ば、飢饉に喘ぐアイルランドから身一つでアメリカに渡ってきたトマスは、同世代の若者ジョンと意気投合する。お金を稼ぐために引き受けた女装でダンスをする仕事、軍隊で経験した先住民との戦い、そして南北戦争。激動の日々を送る中で、トマスとジョン、そして先住民の少女ウィノナは、強い絆で結ばれていく。

 はじめのうち、トマスの粗野な口調に対して一人称が「私」と訳されていることに違和感があったのだが、トマスのアイデンティティが明らかになってくるにつれ、このバランスには必然性があったのだと腑に落ちた。トマスは勇壮な戦士の顔を持ちながら、女物のドレスを身にまとうと圧倒的な自由を感じる人なのだ。トマスの声は、ごく個人的な体感に基づいた生々しさを帯びていて、それだけに、過酷な戦争の描写がダイレクトに迫ってくる。戦争のただ中に投げ込まれたとき、生身の人間たちは何を思考し、どれほど飢え、どんな気持ちで敵を殺し、どんな手順で仲間を埋葬するのか。そうしたディテールが、胸苦しいほどの説得力をもって立ち上がってくる。

(本の雑誌 2023年9月号)

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●書評担当者● 石川美南

外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。

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