生きて未来を記憶する散歩文学の新たな名作!

文=石川美南

  • 未来散歩練習 (エクス・リブリス)
  • 『未来散歩練習 (エクス・リブリス)』
    パク・ソルメ,斎藤 真理子
    白水社
    2,310円(税込)
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  • B:鉛筆と私の500日
  • 『B:鉛筆と私の500日』
    エドワード・ケアリー,古屋 美登里
    東京創元社
    2,860円(税込)
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  • ルクレツィアの肖像 (新潮クレスト・ブックス)
  • 『ルクレツィアの肖像 (新潮クレスト・ブックス)』
    マギー・オファーレル,小竹 由美子
    新潮社
    3,080円(税込)
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  • 九月と七月の姉妹
  • 『九月と七月の姉妹』
    デイジー・ジョンソン,市田 泉
    東京創元社
    2,200円(税込)
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  • ポトゥダニ川 (群像社ライブラリー)
  • 『ポトゥダニ川 (群像社ライブラリー)』
    アンドレイ・プラトーノフ,正村和子
    群像社
    1,980円(税込)
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  • アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)
  • 『アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)』
    柴田元幸
    スイッチ・パブリッシング
    2,640円(税込)
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 散歩文学という一大ジャンルがある。今ぱっと思いつくだけでも、W・G・ゼーバルト『土星の環』に多和田葉子『百年の散歩』、最近話題になった高原英理『詩歌探偵フラヌール』やハン・ジョンウォン『詩と散策』、歩くこと自体について思索したレベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』など......。散歩文学の魅力は、実際に歩く描写があるだけでなく、語りも一直線ではなく、曲がり道や枝分かれする道をさまよい歩いていくようなところにある。

 パク・ソルメ『未来散歩練習』(斎藤真理子訳/白水社)は、そうした散歩文学の王道を行く小説だ。登場人物たちは釜山を、東京を、歩いて、歩いて、歩く。一九八二年に起きた釜山アメリカ文化院放火事件を遠望しながら。

 本書は、現在と未来について真摯に考え続け、未来を「練習」しようとしてきた人たちへの柔らかな共感に満ちている。深刻な政治事件をテーマに据える一方で、タイトルの「未来」と「練習」の間に割り込んだ「散歩」の要素が、小説全体を軽やかで風通しの良いものにしている。散歩中、ふと昔のことを思い出して一人でふふっと笑ったり、料理店の裏口から漂ってくるおいしそうな匂いに釣られたりするときのような、自由で親密な雰囲気。ゆらゆら揺れる文章を追っていくうち、登場する女性たちのことを、しばらく会っていない友だちのように親しく感じるはずだ。

 一方、エドワード・ケアリー『B:鉛筆と私の500日』(古屋美登里訳/東京創元社)は、物理的な散歩が不可能な状況下における作家の脳内散歩を存分に堪能できる。新型コロナウイルスが蔓延する二〇二〇年三月から作者が一日一枚描き、Twitter(現・X)にアップし続けたスケッチ五百日分と、当時の生活を綴ったエッセイを収めた風変わりな作品集である。

 エドワード・ケアリーが描く人物は私たちが知っている─つまり、有名な肖像画や映画で見たことのある─顔の、一瞬前か一瞬後のような表情をしている。目を閉じて笑うアインシュタインや、やや鼻が痒そうな(※個人の見解です)ベートーヴェンは、作者の小説世界に登場する奇妙な人物の一人のよう。エドワード・ケアリーの小説を愛する人はもちろん大いに楽しめるし、パンデミックの個人的記録としても貴重な一冊になっている。ちなみに、個人的なお気に入りはバスター・キートン、レイア姫、フンボルトペンギン、マクシミリアン・ロベスピエールの四人が一枚に収まっているページ。

 マギー・オファーレル『ルクレツィアの肖像』(小竹由美子訳/新潮社)の舞台は、十六世紀イタリア。大公コジモ一世・デ・メディチの娘ルクレツィアは、病死した姉に代わり、わずか十五歳でフェラーラ公に嫁ぐことになる。結婚して一年足らずのある夜、彼女は唐突に気づく。夫は自分を殺すつもりなのだ、と。

 歴史にごくわずかな痕跡を残し、十六歳でこの世を去った一人の女性の生涯をサスペンスタッチで描いた本書は、十六世紀の光と影をくきやかに映し出している。世継ぎを産むことのみを期待され、妻の座に押し込められながらも、己の内に虎を飼い続けるルクレツィアの人物像が魅力的。小さな細密画や刺繍の裏の糸にまでピントが合った緻密な描写にもわくわくさせられる。終盤の展開に関しては、それちょっと作者の勝手すぎやしませんかと文句を付けたい部分もあるのだが、最後の最後まで夢中でページをめくってしまったのは確か。読み終えた人と感想を言い合ったら、さぞ面白い本なのではないかと思う。

 デイジー・ジョンソン『九月と七月の姉妹』(市田泉訳/東京創元社)は、ホラー風味の劇薬青春小説。十ヶ月違いの姉妹・セプテンバーとジュライは、絵本作家の母親と共に海岸沿いの古い家へ引っ越してくる。圧倒的なエネルギーで妹のジュライを支配するセプテンバーと、自分に自信がなく幼いジュライ。二人の歪な絆は揺らぐことがなかったが......。

 シャーリイ・ジャクスン賞候補も納得の嫌~な話ながら、少女たちの心に潜む残酷性や壊れやすさをビビッドに描きだしていて、忘れがたい印象を残す。

 アンドレイ・プラトーノフといえば『チェヴェングール』の日本翻訳大賞受賞も話題になったが、短編集『ポトゥダニ川』(正村和子・三浦みどり訳/群像社)も滋味溢れる一冊。一編一編は短いが、人間らしさの根源を問いかけてくるような力強さがある。

 表題作は、国内戦終結後に帰還した若き兵士が、故郷で自分の人生を取り戻そうとする物語。あまりにも柔らかく繊細な人の心を、荒々しい自然が包み込む。「セミョーン」は、家族を支えようと奮闘する七歳の少年の姿を痛ましくも鮮やかに描く。「たくさんの面白いことについての話」は、宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」辺りにも通じる奇妙な味わいが魅力だ。

『アメリカン・マスターピース 準古典篇』(柴田元幸編訳/スイッチ・パブリッシング)は、アメリカの短編小説の中から、それぞれの作家のベスト作品を選んで翻訳するシリーズの第二弾。一九一九年から一九四七年に発表された十二の作品を収める。ヘミングウェイ「インディアン村」の非情、イーディス・ウォートン「ローマ熱」のただならぬ緊張感、ウィリアム・サローヤン「心が高地にある男」のおかしみ。少年の葛藤が心に刺さるフォークナー「納屋を焼く」に、悪党見本市のようなネルソン・オルグレン「分署長は悪い夢を見る」......。まさに、マスターピースと呼ぶに相応しい名作揃いで、一作読み終えるごとにため息が出た。

(本の雑誌 2023年10月号)

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●書評担当者● 石川美南

外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。

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