楽園ははるか遠く......グルナ・コレクション開幕!

文=石川美南

  • 楽園 (グルナ・コレクション)
  • 『楽園 (グルナ・コレクション)』
    アブドゥルラザク・グルナ,粟飯原 文子
    白水社
    3,520円(税込)
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  • 化学の授業をはじめます。
  • 『化学の授業をはじめます。』
    ボニー・ガルマス,鈴木 美朋
    文藝春秋
    2,750円(税込)
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  • タスマニア
  • 『タスマニア』
    パオロ・ジョルダーノ,飯田 亮介
    早川書房
    3,410円(税込)
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  • 鷲か太陽か? (岩波文庫 赤797-2)
  • 『鷲か太陽か? (岩波文庫 赤797-2)』
    オクタビオ・パス,野谷 文昭
    岩波書店
    792円(税込)
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  • イギリス人の患者 (創元文芸文庫)
  • 『イギリス人の患者 (創元文芸文庫)』
    マイケル・オンダーチェ,土屋 政雄
    東京創元社
    1,320円(税込)
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  • 戦争語彙集
  • 『戦争語彙集』
    オスタップ・スリヴィンスキー,ロバート キャンベル,ロバート キャンベル
    岩波書店
    2,200円(税込)
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 大商人の率いる隊商が、海岸の町から内陸へと旅を進めていく。その列の終わり近く、一人の美しい少年が、目を大きく見開いて周囲を観察している。

 アブドゥルラザク・グルナ『楽園』(粟飯原文子訳/白水社)の舞台は、二〇世紀初頭の東アフリカ。奴隷制度が廃止され、ドイツの支配が進む頃である。ある日、少年ユスフは借金の形代わりに商人・アズィズおじさんの元で働くことになる。商店で、旅先で、庭で、多くのことを経験するうち、ユスフは自らが生きる世界の矛盾や時代の変化について理解を深めていくことになる。

 特筆すべきは、少年が聞きかじる年長者たちのおしゃべりが実に魅力的なこと。噂話、迷信、宗教談義、猥談に真剣な政治談義。生き生きしたやりとりを、ユスフと一緒にずっと聞いていたくなる。しかし、彼らはそれぞれに社会の軛の中で苦しみ、不安を抱えている。そしてユスフが最後に駆け出す先には、さらに大きな壁が待っている。

 作者はザンジバル(現・タンザニアの一部)出身の、静かなるノーベル賞作家。本書が初邦訳だが、今後も「グルナ・コレクション」として邦訳が続く予定とのことで、楽しみだ。

 ボニー・ガルマス『化学の授業をはじめます。』(鈴木美朋訳/文藝春秋)の舞台は、一九五〇~六〇年代アメリカ。主人公エリザベスは化学者を志すが、猛烈な女性差別に晒される。かけがえのない恋を経てシングルマザーとなった彼女は、ひょんなきっかけからテレビの料理番組に出演することになる。化学用語を駆使した型破りな語り口は視聴者の心を掴んでいくが......。

 若干チャラめの邦題(ごめん)に警戒しつつ読み始めたが、エリザベスの辛辣なユーモアセンスに、一ページ目からニコニコしてしまった。わかってる。現実では、これほどの大団円はそうそうない。慣れない子育て中、頼もしい協力者に出会えるとは限らないし、才能を周囲に認められずに終わってしまった女性たちは数知れない。それでも、登場する人々(と犬)の奮闘を本気で応援し、活躍に快哉を叫んでしまった。愛すべき物語だ。

 一方、パオロ・ジョルダーノ『タスマニア』(飯田亮介訳/早川書房)は、現実のしんどさをこれでもかというほど味わえる一冊である。

 主人公は、パオロ・ジョルダーノ自身を思わせる作家。長い不妊治療の果てに子どもを断念した後、彼は家族の問題から逃れるように、環境に関する国際会議の傍聴を決める。夫婦の危機、気候変動、自己弁護、ジェンダー、SNS炎上、そして原爆。個人的な苦悩と世界的な問題が共振し、八方塞がりな気分に陥ることは、多くの人が経験済みだろう。オートフィクションの手法を採っているだけに、語り手の正直すぎる独白にしばしばぎょっとし、身につまされて胃が痛くなった。〈タスマニア〉は、遠い。

 文庫化作品から二冊。

 オクタビオ・パス『鷲か太陽か?』(野谷文昭訳/岩波文庫)は、散文詩のような、短編のような、浮遊するテキスト群が収められた初期の代表作。シュルレアリスムの影響を受けながら独自の詩境を拓いており、力強い。詩を書く行為自体を綴った「詩人の仕事」の、

(前略)平手で六つか七つ──もしくは一〇か一〇億──の言葉を押し潰し、その軟らかな生地を団子にこね、固くなって星屑のように光るまで戸外に晒しておく。そして十分冷たくなったなら、お前が生れたときからずっとお前を眺め続けてきた目玉に向かって力いっぱい投げつける。(略)たぶん何かを壊すことが、世界の顔を破壊することができるだろう。(後略)

 といった辺りに、作者の志がよく表れている。青い目の花束を作ろうとする男との遭遇を描く「青い花束」や、本物の波との恋愛譚「波との生活」など、物語性のある作品も楽しい。

 マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』(土屋政雄訳)は、創元文芸文庫から装いも新たに再登場。第二次世界大戦末期、イタリアの打ち捨てられた屋敷に、謎めいた瀕死の男と若い看護師が暮らしている。そこに加わる元泥棒と、インド出身の爆弾処理兵。戦争で傷を負った四人によるカルテットが、自在に飛躍するイメージとたゆたうような文体によって豊かに綴られていく。訳者あとがきが単行本版、新潮文庫版、今回の文庫版と三種類読めるのも嬉しい(あ、なぜか私が解説を担当していますが、そこは飛ばしていただいても)。圧倒的に美しい最高級の小説、この機会にぜひ。

 今月最後にご紹介するのは、オスタップ・スリヴィンスキー作/ロバート キャンベル訳著『戦争語彙集』(岩波書店)。

 二〇二二年二月、ウクライナはロシア軍による攻撃に晒された。ウクライナの詩人・オスタップ・スリヴィンスキーが、戦火を逃れて避難してきた人々から体験談を聞き取り、その物語を七十七の単語に託して辞書のように並べたのが本書である。たとえば「バスタブ」「結婚式」「歯」「ナンバープレート」といったごく当たり前の言葉が、戦争を境に全く違う意味を持ってしまう恐ろしさに、愕然とする。その一方で、困難な状況にあっても言葉の静かな力、善なる力を信じようという作者の志に勇気付けられる。詩のように響き合う小さな声の積み重ねをもっと聞き続けたいけれど、このプロジェクトが続くということは、戦争が終わらないということでもある。

 本書の後半には、翻訳者のロバート・キャンベルが実際にウクライナを訪れ、人々と対話した記録を収録。前半の語り手たちも登場し、この語彙集が生まれたことの意味をより多面的に考えられる構成になっている。

(本の雑誌 2024年4月号)

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●書評担当者● 石川美南

外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。

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