不気味で動機が見えないインドリダソン『悪い男』の恐怖

文=柿沼瑛子

  • 悪い男
  • 『悪い男』
    アーナルデュル・インドリダソン,柳沢 由実子
    東京創元社
    2,420円(税込)
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  • 7月のダークライド (ハーパーBOOKS)
  • 『7月のダークライド (ハーパーBOOKS)』
    ルー バーニー,加賀山 卓朗
    ハーパーコリンズ・ジャパン
    1,230円(税込)
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  • クリスティを読む!: ミステリの女王の名作入門講座 (キイ・ライブラリー)
  • 『クリスティを読む!: ミステリの女王の名作入門講座 (キイ・ライブラリー)』
    大矢 博子
    東京創元社
    1,980円(税込)
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 アーナルデュル・インドリダソンの新作『悪い男』(柳沢由実子訳/東京創元社)の主人公はいつものエーレンデュルではなく、婦人警官エリンボルグである。偏屈な(!)エーレンデュルが主人公だと内省的というか、魂の冥さのようなものに共鳴して心がズンとしてしまうのだが、(とりわけ前作『印』)エリンボルグはある意味とても現実的である。三人のティーンエイジャーの母親であるが、子供たちは三人三様に彼女を悩ませている。どことなく前回のカリン・スローターの作品に登場する肝っ玉母ちゃんフェイスを思い出すが、こちらは家族には時間が許すかぎり手作りの料理をふるまい「ていねいな暮らし」を心掛けている。自分の仕事を誇りにはしているが、できれば子供たちに見せたくない、世の中の醜さや恐ろしさに直面させるのをできるだけ避けたい、もしくは引き延ばしたいと思っている点はフェイスと同じだ。

 物語はレイプドラッグを利用して若い娘を眠らせ、相手が意識不明のうちに強姦するレイピストの男ルノルフルが獲物を探す場面で始まる。数時間後レイキャビクの中心街のアパートで半裸の男が刃物で喉を切り裂かれて大量出血死した状態で発見される。殺されていたのはルノルフルであり、その体には被害者女性のTシャツが無理やり着せられていた。やがてルノルフルが同様の手口で犯行を繰り返していることがわかるが、被害者女性たちは一様に口が重い。レイプが彼女たちの魂を窒息させてしまったのだ。「あなたは悪くない、隠れる必要はない、堂々と胸を張って生きるのだ、悪いのは人間の尊厳の破壊者、暴力を振るう者たちなのだから」というエリンボルグのメッセージは、これまたカリン・スローターをほうふつさせる。怖いのは「悪い男」のルノルフルがなぜこうなったのか、なぜこのような犯行に及んだのか動機が見えてこないことだ。最後までそれがわからないところがなんとも不気味である。ラスト近くでエリンボルグは「彼の中にあった悪意、深く、冷たく、そして絶え間なく彼の中に流れていた暗い流れ」と述懐するが、日本人としては札幌の某事件を思い出さずにはいられない。

 ルー・バーニーの新作『7月のダークライド』(加賀山卓朗訳/ハーパーBOOKS)の主人公は大学をドロップアウトし、遊園地で保安官の死体役に甘んじるモラトリアム男ハードリーだが、本人は面倒を避けてのらりくらり生きることにまったく充足している。そんな彼が突然ある日、煙草の火を押しつけられた跡のある幼い姉弟に出会うことで「覚醒」する。すぐに虐待を通報するが相手にされず、いつもならそこで投げだしているところなのだが、なぜか姉弟の姿が頭に取り憑いて離れなくなってしまう。子供たちの母親を探り出し、素人探偵よろしく住所と子供たちの父親を突き止めて、なんとか救い出そうと奔走するのだ。しまいにはそれだけが彼を動かす原動力になってしまう。捜査に取り憑かれるさまは「向かない」シリーズのピップをほうふつさせる。これはひょっとしてこれまでいい加減に生きてきたモラトリアム男が己の人生に目覚める話なのか、いや、でも、ルー・バーニーだし......と思ってたらあんのじょう、そこから彼の魂のダークライドが始まるのである。

 痛みを知らなかった彼が本物の痛みを味わうのは、生まれて初めて暴力を振るわれ半死半生の目にあってからだが、それ以降子供たちを救い出すことが一種の「聖戦」になってしまう。彼の望みはとにかく子供たちが幸福になることであり、自分の行動が引き起こすことになる結果をほとんど考えようとしない。うるさい子犬のように慕ってくるサルヴァドールや、なんだかんだいってお金を用立てしてくれるマジメ人間のお兄さんに対する扱いはどうかと思うし、せっかくゴス娘のエレノアや、年上のフェリスといった賢明な女性たちとの交流もありながら、結局ダークライドに乗ってまっしぐらにつき進んでいくのだ。その行き着く先は...とこれ以上は明かせないが、こうなってみると彼を励ましてきた亡き母親の「でも、だいじょうぶだった!」という言葉はある意味じゃ呪縛だよな。もしチャンスがあれば、本作に何度か出てくるブリューゲルの「イカロスの墜落のある風景」をぜひ画像で御覧いただきたい。この絵では人々は変わることなく日常の営みを続け、海に落下するイカロスに誰も気づいてもいないのだ。

 先月のルーシー・ワースリーの伝記といい、今回の『クリスティを読む!』(大矢博子/東京創元社)といい、やっぱりクリスティは来てるのか? 読む前にまずは表紙イラストをご覧あれ。中央にクリスティとおぼしきタイプを叩く老婦人、そのまわりにはクリスティの小説に登場するさまざまな手がかりの小物ズが。まさにクリスティ愛にあふれているではないか! 作者はカルチャー・センターでクリスティについての講座を七年間担当してきただけあって、入門書とあるが、クリスティの長年の愛読者も満足させる内容の濃さだ。この本の面白さはなんといっても「ねっ、ねっ、そうだよね!」とうなずきたくなる部分と、冷静なクリスティ分析としての部分のバランスが絶妙であることだ。異邦人であり物事を「外」から見るポワロ、それに対してクリスティ本人と同じ時代を生き、物事を「内」から見るマープル。人を裁くことに最後まで煩悶するポワロと対照的に、ミス・マープルは自らを「復讐の女神」と呼び、冷然と悪い奴らを裁く。いつか「本当は怖いミス・マープル」を誰か書いてくれないものだろうか。

(本の雑誌 2024年4月号)

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●書評担当者● 柿沼瑛子

翻訳家。翻訳学校教師。主訳書はアン・ライス、パトリシア・ハイスミスなど。最新訳書はアルジス・バドリス「誰?」ジプシー・ローズ・リー「Gストリング殺人事件」共編書に「耽美小説・ゲイ文学ガイドブック」「女探偵たちの履歴書」などあり。元山歩きインストラクター・靴屋の店員、ロス・マクドナルド&マーガレット・ミラー命。

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