語りのマジックに身も心も委ねるのだ!
文=石川美南
今月は傑作のオンパレード! まずはデイモン・ガルガット『約束』(宇佐川晶子訳/早川書房)。二〇二一年のブッカー賞受賞作である。
発端は一九八六年の南アフリカ、オランダ系白人であるスワート家の母親が病死する場面。生前の彼女は黒人メイドのサロメに小さな家を遺したいと願っていた。その願いを耳にしたのは父親と、十三歳のアモールのみ。しかし、アモールの証言は無視され、サロメが家の権利を手にすることはない。アパルトヘイト政策が崩壊に向かうこの時代を、本書は白人社会の側から容赦なく描き出す。さらに、章が変わるごとにおよそ十年の歳月が流れ、スワート家の家族が一人また一人と退場していくのと並行して、南アフリカという国も大きく姿を変えていく。
便宜上あらすじを先に紹介したが、本書の最大の魅力は文体にある。絶妙にコントロールされた時間感覚はヴァージニア・ウルフ『灯台へ』を思わせるが、本書の語りはさらに滑らかに、登場人物たちの内面から内面へと飛び回る。没落していく一家には沈鬱な出来事ばかりが続くが、小説全体としては不思議な人懐こさがあり、読み心地はあらすじから想像するよりずっと軽やか。父親の職業が爬虫類センター経営というシニカルな設定もじわじわくる(と思いきや、これが二章の悲劇につながるのだ)。この上なくブッカー賞らしい、大傑作である。
『約束』のアモールは末っ子として家族から軽んじられるが、サマル・ヤズベク『歩き娘 シリア・2013年』(柳谷あゆみ訳/白水社)の語り手リーマーも、周囲から無能で助けを必要とする存在とみなされている。彼女は詩篇の朗詠以外言葉を発することがなく、歩き出すと止まれなくなる奇癖を持っていた。内戦が深刻化する二〇一三年のシリア。検問所で母が死んだ後、リーマーは反体制運動に加わる兄と共に封鎖地域に足を踏み入れる。爆撃に晒される市民たち。毒ガス攻撃から逃げ延びたのに、脱衣は禁忌だと言われ、服に浸み込んだ毒によって命を落とす女たち。凄惨な現実を目の当たりにしたリーマーは、まだ見ぬ「あなた」に向けて手記を書き綴る。
スーパーボールで遊ぶように、私なりのやり方で話していくつもりです。まるで、その中に壊れた鏡の小さな破片がちりばめられているみたいに。
強固な意思をもって独自の語りのスタイルを貫く彼女の強さに打たれ、息を詰めて見守った。
さて、皆さん既にご存じとは思いますが、一応言っておかなくては。ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直訳/新潮文庫)、文庫版がついに出ましたよー!
小さな村マコンドを建設したブエンディア家の百年以上にわたる孤独な歩みと終焉を、蒸発する鍋、土を食べる娘、居座る幽霊、四年十一カ月と二日降りつづける雨といった異様なエピソードを平然と交えながら語る、世界文学史上に輝く名作。数年ぶりに手に取ったが、荒々しくも魅力的な語りに引き込まれ、再々再読なのにすっかり夢中になってしまった。文庫サイズになって心なしか読みやすくなった気がするし、もちろん家系図も付いている。筒井康隆の解説も愛が迸っていて楽しい。未読の方はもちろん、久々に読んでみたくなった方もぜひ。
そして、『百年の孤独』と同日に発売されたマット・ラフ『魂に秩序を』(浜野アキオ訳/新潮文庫)が、これまた面白いのだ。
アンドルーは、多重人格者アンディ・ゲージの人格の一人として二十六歳で「誕生」し、脳内に住む他の人格たちと体を分け合いながら生活をしていたが、同じく多重人格者のペニーと出会い、自らの過去を探るべく、一緒に旅に出ることになる。ミステリ、ダークファンタジー、スリラーなど様々な要素を詰め込んだ一冊だが、端的に言うなら、とびきり変わり種かつ高純度の青春エンタメ小説といったところだろうか。多重人格者同士が人格を入れ替えながら語り合うという趣向こそトリッキーだが、若者たちが痛みと向き合う過程は普遍的で、ある意味王道の成長譚と言える。二人の生い立ちはあまりにも過酷だが、脳内外の登場人物たちが共闘する展開は痛快(全ての単語に「クソ」を付けて喋るマレディクタが最高)。脳内創世記ともいうべき序章でなんのこっちゃと不安になっても大丈夫。数十ページ進めばそこからは一気、特に終盤の畳みかけはすごい。新潮文庫史上最厚(千ページ越え!)に怯むことなかれ。
最後にご紹介するのは『ソフィアの災難』(福嶋伸洋・武田千香編訳/河出書房新社)。『星の時』が第八回日本翻訳大賞を受賞したクラリッセ・リスペクトルの日本オリジナル編集版短編集で、大学時代のデビュー作から遺作まで、幅広い時期の作品二十九編が収められている。
二〇世紀ブラジル文学を代表する作家であるリスペクトルは、時に寓話的、時に思弁的な語り口で女性の困難な生に寄り添う。たとえば、汽車で前に座った男二人が「かぱわぱいぴいぴむぷすぷめぺだぱなぱ(可愛い娘だな)」と話しているのに気づいた娘の恐怖を描く「P語」。唐突に挿入されるパ行に思わず笑うが、怖いものなしだった若い娘が、暴力によって侵犯される恐ろしさを知ってしまう展開にギョッとさせられる。めんどりやゴキブリなど生物を通して女性を描く作品も印象的だ。少女期の複雑な心情を写し取った表題作もいいし、八十九歳を迎えた母をめぐる群像劇「お誕生日おめでとう」はパンチ力抜群。作者の特徴であるという「ポルトガル語として奇異にうつる文や表現」に寄せたバージョンの翻訳も、いつか見てみたい。
(本の雑誌 2024年9月号)
- ●書評担当者● 石川美南
外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。
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