顔のない人々に寄り添うアダニーヤ・シブリーが凄い!

文=石川美南

  • とるに足りない細部
  • 『とるに足りない細部』
    アダニーヤ・シブリー,山本 薫
    河出書房新社
    2,200円(税込)
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  • ベル・ジャー (海外文学 I am I am I am シリーズ 第1弾)
  • 『ベル・ジャー (海外文学 I am I am I am シリーズ 第1弾)』
    シルヴィア・プラス,小澤身和子
    晶文社
    2,750円(税込)
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  • 夢のなかで責任がはじまる
  • 『夢のなかで責任がはじまる』
    デルモア・シュワルツ,ルー・リード,小澤 身和子
    河出書房新社
    2,900円(税込)
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  • 19世紀ロシア奇譚集 (光文社古典新訳文庫 K-Aタ 1-1)
  • 『19世紀ロシア奇譚集 (光文社古典新訳文庫 K-Aタ 1-1)』
    高橋知之
    光文社
    1,210円(税込)
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  • ロシア文学の怪物たち
  • 『ロシア文学の怪物たち』
    松下隆志
    書肆侃侃房
    1,980円(税込)
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  • 個性的な人
  • 『個性的な人』
    オルガ・トカルチュク,ヨアンナ・コンセホ,小椋 彩
    岩波書店
    3,300円(税込)
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 砂漠でギターを爪弾くと、その音は砂に吸い込まれてちっとも響かないのだという。かつて読んだそんな話を、背中に流れる冷たい汗と共に思い出した。

 アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』(山本薫訳/河出書房新社)第一部の舞台は、イスラエル建国から間もない一九四九年八月のネゲブ砂漠。イスラエル軍の将校は宿営地でサソリに刺され、腿を腫れ上がらせていく。兵士たちは偵察中に遭遇したベドウィンの一団を射殺し、生き残った少女を宿営地に連れ帰って集団レイプした後、殺害する。三人称で書かれたこのパートは、リフレインを多用した詩のような文体で、灼熱の砂漠で高まっていく狂気を静かに暴いていく。

 続く第二部は二〇〇四年頃、あるパレスチナ人女性が件の殺人に関する記事を読み、事件の詳細を明らかにすべく、イスラエル領内の、本来は立ち入ってはいけないとされるエリアにまで踏み込んでいく。女性の一人称で語られるこちらのパートでは、パレスチナ人の置かれている日常がリアルに描かれる。境界を踏み越える女性の行動は、かつて声を奪われた少女の存在に接近するかに見えたのだが──。さして厚くないこの本の読後感は、とても重い。

 本書は二〇二三年にドイツのリベラトゥール賞を受賞した。ところが、同年一〇月にパレスチナ人武装勢力がイスラエルを奇襲すると授賞式は無期限延期される。名前も顔も持たない人々について書かれたこの本が、受賞の栄誉を奪われたという事実に、改めて衝撃を受ける(しかし、本書が出るまでそれを知らずに過ごしていた私だって、世界の不均衡に加担しているのだ)。授賞式のキャンセルを受けてシブリーが書いたすばらしいエッセイ「かつて怪物はとても親切だった」(田浪亜央江訳)は、現在「Web河出」で全文公開されている。本書の後にぜひ、読んでみてほしい。

 シルヴィア・プラス『ベル・ジャー』(小澤身和子訳/晶文社)は一九六三年、作者の死の直前に書かれた世界的ベストセラーの新訳。主人公エスターの声が耳元まで迫ってくるような訳文に引き込まれる。自伝的要素を含む本作は、ニューヨークで抱いた夢と挫折、精神病院への入院、自殺未遂と、あらすじだけ抜き出せばありがちな青春譚のようだが、エスターの語りはカラフルで、辛辣で、愚かしくて、痛々しくて......。何者かになりたいのになれず目の前が真っ暗になった経験のある人、とりわけ、一度でも文学を志したことのある人なら、灼けつくような共感に胸の辺りを掻きむしりたくなるはず。都会と地方の格差、女性の強いられる生き方といった問題は(残念ながら)現代にも通じている。劇薬すぎて、現役の少年少女に薦めるのはためらわれるほどなのだが、用法・用量に注意しながら手に取ってほしい。

 こちらも小澤身和子訳。『夢のなかで責任がはじまる』(河出書房新社)は、表題作が評判を呼び若くして世に出るも、その後は酒に溺れ不遇のうちに没したデルモア・シュワルツ(一九一三~六六)の短篇集である。魅力的なタイトルの表題作は、若かりし頃の両親がデートをする場面が、なぜか古いサイレント映画としてスクリーンに映し出されているという独創的な設定。悪夢の焦燥感と、人生の悲哀がどっと胸に押し寄せてくる傑作だ。ニューヨークの出版関係者たちによるシニカルな群像劇「大晦日」、ある家族の挫折に満ちた歴史を炙り出す「生きる意味は子どもにあり」もいい。末尾を飾る「スクリーノ」は表題作と同じく映画館が舞台の小品だが、一瞬の夢が過ぎ去った後に訪れる諦念が、しみじみとした余韻を残す。

『19世紀ロシア奇譚集』(高橋知之編訳/光文社古典新訳文庫)は、リアリズム小説が中心を占めていた十九世紀ロシア文学の、怪奇・幻想譚を集めたアンソロジーである。古典「新訳」文庫の枠ながら、七篇中六篇は初邦訳。振り切った奇人譚を堪能できるアレクセイ・トルストイ「アルテーミー・セミョーノヴィチ・ベルヴェンコーフスキー」、妄想と現実の間を行き来する怪しい語りが癖になるニコライ・レスコフ「白鷲──幻想的な物語」など、粒揃いのセレクションを楽しめる。唯一既訳もあるイワン・トゥルゲーネフ「クララ・ミーリチ──死後」は、死者に連れて行かれる若者の怪異譚を、心理描写を駆使したリアリズムの文体で書いているのが面白い。

 続けておすすめしたいのが、松下隆志による風変わりな文学案内『ロシア文学の怪物たち』(書肆侃侃房)。松下訳と言えば、本欄五月号でご紹介したユーリー・マムレーエフ『穴持たずども』も強烈だったが、本書では『穴持たずども』をはじめ、ゴーゴリ『外套』、ドストエフスキー『地下室の手記』、ソローキン『マリーナの三十番目の恋』など、ロシア文学史に輝く「怪物」たちを読み解いていく。著者自身の個人史を交えながら語るスタイルは、ロシア文学における「悪」を身近なもの、人間の根源に関わるものとして扱う姿勢と連動していて説得力がある。個人的には、ゴンチャロフ『オブローモフ』の怠惰すぎる主人公をロシアの近代化と対比する章が特に面白かった。

『個性的な人』(小椋彩訳/岩波書店)は、ノーベル賞作家オルガ・トカルチュクの文章にヨアンナ・コンセホが絵を付けた、大人向け絵本。個性的な顔を持っていた人が自撮りを繰り返すうちに顔の輪郭を失っていくという極めて現代的な寓話が、緻密で不穏なイラストによって嫌~な感じに(誉め言葉です)ビジュアル化されている。『昼の家、夜の家』などとは異なるトカルチュクの一面を見られて、興味深い。

(本の雑誌 2024年11月号)

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●書評担当者● 石川美南

外国文学好きの歌人。歌集に『砂の降る教室』『架空線』『体内飛行』などがある。趣味は「しなかった話」の蒐集。好きな鉄道会社は京成電鉄。きのこ・灯台・螺旋階段を見に行くのも好き。

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