悔恨と哀しみのいりまじる『円周率の日に先生は死んだ』

文=柿沼瑛子

  • 円周率の日に先生は死んだ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
  • 『円周率の日に先生は死んだ (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
    ヘザー・ヤング,不二 淑子
    早川書房
    1,870円(税込)
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  • 金庫破りときどきスパイ (創元推理文庫)
  • 『金庫破りときどきスパイ (創元推理文庫)』
    アシュリー・ウィーヴァー,辻 早苗
    東京創元社
    1,320円(税込)
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  • 死と奇術師 (ハヤカワ・ミステリ)
  • 『死と奇術師 (ハヤカワ・ミステリ)』
    トム・ミード,中山 宥
    早川書房
    1,980円(税込)
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  • ネロ・ウルフの災難 激怒編 (論創海外ミステリ 295)
  • 『ネロ・ウルフの災難 激怒編 (論創海外ミステリ 295)』
    レックス・スタウト,鬼頭玲子
    論創社
    3,080円(税込)
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 自慢ではないがわたしは算数も数学も超苦手である。ヘザー・ヤングの『円周率の日に先生は死んだ』(不二淑子訳/ハワカワ・ミステリ文庫)は、タイトルからしてどんな難しい数学の話が出てくるのかと思いきや、苦い青春の記憶と悔恨と哀しみのいりまじった、美しい円環のような作品だった。ネヴァダ州の閉鎖的な小さな町で、小学校の社会科教師ノラは同僚の数学教師マークルが、焼死体となって発見されたことを知る。はからずもその日は彼女の兄が、父親の飲酒運転で亡くなった日でもあった。かつては大学で未来を嘱望された優れた研究者であり、三月一四日はπの日だからと生徒たちにパイを焼くのを楽しみにしていたはずのマークルが、なぜ田舎の辺鄙な町の高校教師として殺されることになったのか?

 物語はマークルの教え子である小学生のサル、兄の死の記憶と父親の介護に縛りつけられているノラの視点を中心に進められていく。とりわけ重要な語り手となる少年サルは「観察者」でありどこか『ロンドン・アイの謎』の主人公を思わせるところがある。ノラもサルもマークルも、彼らにかかわる人々も、とにかく出てくる人たちみんなが悲しいのだ。幸福があるとすればそれはすべて記憶の中にしかなく、人々は息のつまる日常の中で、悲しみを呑み込んで生きていく。感動とは単純に言い切れない、ざらざらした感じが残る不思議な小説だ。

 ところでこの小説いきなり太古の洞窟の描写から始まって「?」となるのだが、最後にひとまわりして「ああ、こう来たか!」と腑に落ちる仕掛けになっている。その結末にも重要な舞台を果たす洞窟はネット等でも写真を観ることができるので、ぜひ物語と合わせてご覧あれ。

 おもてむきは錠前師、裏の顔は凄腕の金庫破りのミックおじの仕事を手伝うエリーが、忍び込んだ先で英国陸軍の罠にはまり、英国陸軍の仕事をいやいや手伝うことになるというのが、アシュリー・ウィーヴァー『金庫破りときどきスパイ』(辻早苗訳/創元推理文庫)。ヒロインをめぐっては、英国陸軍の腕っこきだが無愛想なラムゼイ少佐、幼馴染で脚を負傷して戦線から戻ってきた優しいフェリックスと華やかなのだが、絶えず死の予感に脅かされている灯火管制下のロンドンが舞台とあってはロマンス味もいささかほろ苦い。行きがかり上やむなくエリーと偽装カップルを演じることになるヒーロー役のラムゼイ少佐は、私の脳内では完全に(髪や瞳の色は違えど)『エロイカより愛をこめて』のエーベルバッハ少佐で変換されているせいか、どことなく青池保子が男女のラブコメを書いていたころをほうふつさせる。もしくは飛鳥幸子のピカレスク・ロマンとか。金庫破りの方法についても詳細に描写されており、訳者もさぞかし苦労したことだろう。

 それにしても気になるのが、複数の登場人物の口から何度も出てくる『なにひとつ以前と同じにはならない』というコメント。この作品の舞台は一九四〇年八月である。つまりドイツ軍によるロンドン大空襲の一カ月前なのだ!

 アガサ・クリスティーでミステリに目覚め、カーやロースンに手を取られて、日本の新本格ミステリに出会う......とまさに本格ミステリに純粋培養された若者による黄金期へのオマージュともいえるのがトム・ミード『死と奇術師』(中山宥訳/ハヤカワ・ミステリ)。舞台は一九三六年ロンドン。高名な心理学者アンセルム・リーズ博士が自宅の書斎で殺される。直前に部屋に入ったはずの男の姿はどこにもなく、残されたのは完全な密室下で喉を切り裂かれた死体だけ。容疑者となるのは、ひと癖もふた癖もありそうな博士の患者たち。この謎を解く探偵役が、元奇術師のジョセフ・スペクターである。黒マントに身を包み、骸を思わせる笑みの持ち主と外見はミステリアスだが、ここぞという時に奇術を披露したがるのがご愛敬。

 犯人が殺人現場から姿を消す不可能犯罪といえば、本コラムで以前紹介したリアル黄金期ミステリの『禁じられた館』が思い出されるが、本作との違いは、あのおとぎ話を読んでいるような「ほんわか感」(稚気?)が少なめなことかな。キャラがまだ薄いので、シリーズとしての成熟が楽しみである。

 レックス・スタウトの人気が日本では今ひとつなのは、やはりあの探偵の体型(七分の一トン!)と、蘭の栽培家だの美食家だのといった余計なものが鼻につくからだろうか。少なくとも娘時代の私には今ひとつアピールするものがなかった。日本で人気が出ない原因のもうひとつは訳の古さもあると思う。というのも早川の翻訳が途絶えてからしばらくして、論創社から出た『黒い蘭』を読んだらすごく面白かったのだ。とにかくネロとワトソン役のアーチーの「ああいえば、こういう」丁々発止の会話が楽しい。ネロ・ウルフはわがままではた迷惑な主人公ではあるが、納得できなければ公権力にもおおっぴらに反抗する(自分の快・不快で動く傾向も無きにしもあらず)。

 本作『ネロ・ウルフの災難 激怒編』(鬼頭玲子編訳/論創社)では三つの中編が収められており「悪い連"左"」では、夫の発言をいちいち遮って代わりにしゃべる夫人にいらいらするネロ・ウルフが笑える。「犯人、だれにしようかな」では、離婚問題はイヤだとアーチーにごねている間に、なんと待たせていた依頼人がネロ・ウルフのネクタイで絞殺されるという事態が起こり、ウルフがタイトルどおり激怒する。論創社のこのシリーズ、これからは未訳長編を中心に紹介していくとのことだが、できれば『料理長が多すぎる』や『腰ぬけ連盟』といった過去の代表作もぜひ新訳で...。

(本の雑誌 2023年7月号)

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●書評担当者● 柿沼瑛子

翻訳家。翻訳学校教師。主訳書はアン・ライス、パトリシア・ハイスミスなど。最新訳書はアルジス・バドリス「誰?」ジプシー・ローズ・リー「Gストリング殺人事件」共編書に「耽美小説・ゲイ文学ガイドブック」「女探偵たちの履歴書」などあり。元山歩きインストラクター・靴屋の店員、ロス・マクドナルド&マーガレット・ミラー命。

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