吉川トリコ『余命一年、男をかう』を一気読み!

文=北上次郎

  • 身もこがれつつ-小倉山の百人一首 (単行本)
  • 『身もこがれつつ-小倉山の百人一首 (単行本)』
    周防 柳
    中央公論新社
    2,090円(税込)
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 すごいすごい、一気読みだ。この小説をどう紹介したら、手に取ってもらえるだろうか。いま私の脳は猛烈な勢いで回転している。七月一六日発売の吉川トリコ『余命一年、男をかう』(講談社)だ。

 こういうときは思うままに書く。主人公は、片倉唯四〇歳。幼いときから貯金が趣味で、節約人生を続けているヒロインだ。二〇歳のときに購入したマンションのローンもそろそろ返済が完了する。そういうときに、がん検診の無料クーポンが市から送られてきて、無料ならと受けてみたら、子宮がんの宣告。余命は一年、もって三年。

 そのときに、頭の毛をピンクに染め、サバ色のスーツを着た「だれがどう見たってホスト」男が「あのさ、おねーさん、いきなりで悪いんだけど、お金持ってない?」と声をかけてくる。サバ男は、父親の入院費を今日払わないと追い出されちゃうと言うのだ。一日前なら絶対に相手にしない男だが、余命一年を宣告されたばかり。「いいですよ」と言ってしまう。

 本書はここから始まる物語だ。このあとどういう展開を示すのかは、実際に読んでいただきたい。うまいぞ、読ませるぞ。

 一つだけ書いておけば、最後に八〇ページ弱のサバ男(正式には、瀬名吉高という)の視点が入る構成がいい。金を貰った男のほうは何を考えていたのか、ここで明らかになるので物語に奥行きが生まれていることに留意。さらに、片倉唯は、女性が生きにくい現実と戦う戦士でありながら、まだ未成熟であり、それに気がついて変貌していくこと。軽妙なストーリーの底に、そういう強いひびきが潜んでいるから私たちの胸を打つのだ。つまりこれは、成長物語なのである。ラストの至福まで一気に読ませるのも、そして読後感がいいのもそのためだろう。吉川トリコのベストだ。

 うまいなあと思わず唸ってしまったのが、辻村深月『琥珀の夏』(文藝春秋)。話はそれほど珍しくない。子どもの白骨死体が発見されるのが冒頭だが、その敷地はかつてカルトと批判された団体が毎年合宿をしていたところで、三〇年前にその合宿に参加していた法子は、その死体はもしかすると、ミカちゃんじゃないだろうかと考える。で、そのミカとの出会いを語る回想に物語は入っていくのだが、特別に新鮮味のある話ではない。ところが、ネタばらしになるので詳しくは紹介できないけれど、ラスト2章が圧巻。それまでに何度も熱いものがこみ上げてきて、それでもじっと我慢してきたが、最後の最後に、森知登世が現れるところでついに涙腺が崩壊。

 人物造形がすぐれていることはいまさら言うまでもないが、この作家は微妙な感情の表現が群を抜いているのだ。だから、三〇年前に友を求めていた感情が鮮やかに蘇る。法子が幼少時代を過ごしたのは、ある意味で特殊な環境であるのだが、しかしそれは私たちにもあり得たかもしれないことで、そういう過去の不安と渇望と、それでも光り輝いていた一瞬に、気がつくと自然に案内されている。まるで魔法のように。それが辻村深月のすごさだ。

 周防柳『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』(中央公論新社)は、構成が素晴らしい。最初に出てくる藤原定家はこんなふうだ。

「小さな奥目が見開かれ、肘まで剥き出した手が数珠をつかんでわなないている。もともとあばたの皮膚がさらにそそけ立ち、羽をむしった鶏のようだ」

 七〇歳の老人である。隠岐に流された後鳥羽院が許されて帰ってくるかもしれないと噂を聞くシーンだ。鎌倉に対して征伐の兵をあげた承久の乱を後鳥羽院が起こしたとき、定家はわが身かわいさに主君を見限った。対して友の家隆は主君を見限らなかった。その後ろめたさが、いま甦る。震える手に見ているのはその後ろめたさだ。

 ここから膨大な過去の物語が始まっていくが(それは歌とは何かという物語であり、男と男の恋の物語であり、激しく変化していく人の世の物語だ)、鎌倉などくそくらえ、執権北条かかってこよ、と立ち尽くすラストの姿との比較こそ、本書の主題とも言えるだろう。

 周防柳は『逢坂の六人』『蘇我の娘の古事記』『高天原』と、古代から平安時代まで、さまざまな時代を背景にした小説が忘れがたいが(とはいっても、その真価に私が気がついたのは五冊目の著作である『蘇我の娘の古事記』からだから、ホント、恥ずかしい)、登場人物がいつも自由に呼吸していて、物語に躍動感があふれている。だから、読みはじめるといつもやめられなくなる。今回も例外ではない。

 今月の最後は、『吉田初三郎鳥瞰図集』(昭文社)。大正の広重、と言われた吉田初三郎の鳥瞰図を紹介する書だが、これまで吉田初三郎に関する本が出るたびに購入してきた私も初めて見る鳥瞰図が、ここには多く収録されている。観音開きの絵が幾葉も収録されているのが本書の特色だが、おやっと思ったのが、「湘南電鐵沿線名所圖繪」。湘南電鉄は、京急電鉄の前身の一つで、黄金町から横須賀を経て浦賀までの本線と、金沢八景で分岐して逗子にいたる支線を、昭和五年に開通させている。この名所図絵は、その開通と同時に作成されたものということだが、横須賀軍港駅(現在の汐入駅)の前に「海軍工廠」があり、「逸見駅」の近くには「軍需部」までもが描かれている。このあたり一帯を通る列車は窓も閉められていて開けるのを許されなかった(今尾恵介『地図で読む戦争の時代』)というのだが、昭和五年はそういう厳しい規制があったはずなのに、どうしてこの沿線地図が世に出たのか。初三郎の鳥瞰図はデフォルメされることが多いので、見逃されたということなのか。わからないことが多いのである。

(本の雑誌 2021年8月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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