寺地はるな『ガラスの海を渡る舟』の「おはよう」が胸に染みる

文=北上次郎

 寺地はるな『ガラスの海を渡る舟』(PHP研究所)の七三ページに、羽衣子が恋人のまこと君のことを考える箇所がある。少し長くなるが、そのくだりを引く。

「でもまことくんは違う。わたしの見たことのない映画、読んだことのない本をたくさん知っているから話題が豊富で、誕生日にはいつもわたし好みのアクセサリーをプレゼントしてくれるし、いろんなものごとの運びかたがすこぶるスマートだ。はじめて部屋に遊びに行った時なんか、気がついたらソファーで髪を撫でられていたし、気がついたら服を半分ぐらい脱がされていたし、痛いとかこわいとか思う間もなくうっとりした心地のまますべてが終わっていた」

 このくだりを読んで、この男は信用できないな、と思った。私、まことのようなこういう男が好きではないのだ。でも私の好みと羽衣子の幸せは別だから、それでも彼女が幸せになるならばいい、と思っていた。はたしてどうなるのか、と思いながら読んだので、そのあとの展開がスリル満点。どうなるんだ君たち。

 最近は、小説の評価とは関係のない箇所でこのように立ち止まることが多い。いや、最近にかぎってのことじゃないな。昔からだ。

 コミュニケーションが苦手な兄の道と、普通であることにコンプレックスをかかえている五歳下の妹羽衣子。けっして仲がいいとは言えないこの二人が、祖父のガラス工房を継いでいく物語だ。あることをきっかけに、二人の心は自然に、静かに寄り添っていくが、だからといって世界が円満であるわけではない。光多おじさんの葬儀の席で
「お前さ、この話聞いてもなんとも思わへんの?」
 と突っかかってくる従兄弟の航平の言葉に耳を傾けよう。
「家と土地のこと、お前らがもうすこしちゃんとしてくれたら、おとんももうすこし長く生きられたかもしれへんやんか」

 こういうズレはなくならないのだ。道と羽衣子がこのようにズレたままでいることも、口をきかないままでいたことも、十分にあり得たのである。だからこそ、「おはよう」というふたりの普通の挨拶が胸に染みるのである。

 砥上裕將『7・5グラムの奇跡』(講談社)もいい。二〇一九年に『線は、僕を描く』で第五九回のメフィスト賞を受賞した著者の、待望の第二作だ。そのデビュー作は水墨画小説として実に鮮やかな作品だったが、このあと、どういう物語を書くんだろうと思っていた。

 まったくの予想外だ。水墨画から一転、今度は街の眼科医で働く新人の視能訓練士を主人公にした連作である。視能訓練士とは何か。本文から引く。

「視機能学に特化した教育を受けて、眼科治療に関わる専門的な機器を使いこなし、医師の指示のもと検査や視機能に関する訓練を担当する専門技師」

 視能訓練士になるには、国家試験に受からなければならないが、合格しても野宮恭一はなかなか就職先が決まらず、北見眼科医院にようやく職が決まったのは卒業間近の三月。ぴかぴかの新人である。これは、眼科医院の中で彼がすこしずつ成長していく青春小説だ。

 この青年のキャラクターがとにかくいい。イケメンなのに本人にその自覚はなく、むしろ不器用で、正直で、そして誠実だ。北見先生に「君にはとても良いところがある」と言われても、本人には何のことかわからないというのもいい。まこと君とは対極のところにいる青年で、羽衣子に紹介したいくらい。水墨画から眼科医療に変わっても、底を流れるものに変わりはない。やさしく、美しいものが物語の底を流れている。とてもいい。現代では珍しい作家と言えるだろう。

 わき役たちの造形もいいが、男性看護師の剛田さんが突出している。週に四日もジムに通い、趣味はアウトドア。男性スタッフは剛田さんと野宮くんだけなので、ノミーというあだ名を勝手につけて「元気出せよ」と声をかけてくる。「遠い目で広瀬さんを見ちゃってどうしたの。見とれちゃう?」とかなんとか。いつも明るいので年配の患者さんに評判がよく、北見先生が往診するときは一緒に行って、患者さんに喜ばれる。

 それでも眼科医療の最前線にいれば辛いことやストレスもあり、そんなときはジムであえてハードなトレーニングを自分に課す。もっとも剛田さんは、嬉しいことがあったときもハードなトレーニングを課して自分を追い込むから、ひたすら体を動かすことが好きなだけかも。

 たった二冊でここまでスペースを使ってしまったので、あとはこれだけにする。君嶋彼方『君の顔では泣けない』(KADOKAWA)。第一二回の小説野性時代新人賞の受賞作だ。

 男女の心が入れ代わるという話は珍しくないので、ふーんと思って読み始めたが、どんどん物語に引きずり込まれる。それは、心が入れ代わった状態が一五年間も続くからだ。一五歳の彼らが三〇歳になるまでの話なのである。

 男になったまなみと、女になった陸が、高校を卒業し、大学に入り、そして就職し、恋愛して結婚するという、二人の一五年間の日常をとてもリアルに描いていくのだ。人物造形が秀逸なので、そういう青春小説としてたっぷりと堪能できるのである。ただ、彼らの心と体が一致していないので、物語が普通の青春小説よりも複雑になっている、というだけだ。順序は逆ではない。

 今月は他にも、三羽省吾『共犯者』(KADOKAWA)と、生馬直樹『フィッシュボーン』(集英社)という私のお気に入り作家の新作が出ているが、残念ながら当欄の対象外なのでスルー。

(本の雑誌 2021年11月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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