馳星周『黄金旅程』を複雑な気持ちで読む

文=北上次郎

  • マネーの魔術師-ハッカー黒木の告白 (中公文庫 え 21-6)
  • 『マネーの魔術師-ハッカー黒木の告白 (中公文庫 え 21-6)』
    榎本 憲男
    中央公論新社
    990円(税込)
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  • ホームレス女子大生川を下る―inミシシッピ川
  • 『ホームレス女子大生川を下る―inミシシッピ川』
    佐藤 ジョアナ玲子
    報知新聞社
    1,300円(税込)
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  • 下北沢であの日の君と待ち合わせ
  • 『下北沢であの日の君と待ち合わせ』
    神田 茜
    光文社
    1,760円(税込)
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  • おせん 東京朝日新聞夕刊連載版
  • 『おせん 東京朝日新聞夕刊連載版』
    邦枝完二,小村雪岱,真田幸治
    幻戯書房
    3,850円(税込)
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 馳星周が競馬を始めたという話を聞いたときから、いつかは競馬小説を書いてくれるのではないかと期待していたが、小説すばるで連載が始まったとき、牧場を舞台にしていると知って複雑な気持ちになった。

 というのは私、牧場や厩舎を舞台にしたり、騎手や馬主を主人公にした競馬小説は苦手なのである。なぜなら、そういう小説は多くの場合、感動系の物語に接近することが多いからだ。宮本輝『優駿』が好例だ。感動する話が嫌いなのではない。私、結構好きだ。競馬を感動系に近づけることがイヤなのである。競馬は誰がなんといってもギャンブルにほかならない。自分の金が減っていくわけだから痛みを伴うし、ロマンだなんて言っていられない。

 昨年の当欄で、この四半世紀の競馬小説ベスト3を発表したが、競馬関係者が登場しない作品ばかりを選んだのも同じ理由である。杉山俊彦『競馬の終わり』は日本とロシアの馬主の対決を描いた作品だが、読んでいただければわかる通り、感動系の物語ではない。競馬場を舞台にしても鳴海章『輓馬』のように感動系に接近しない「暗い作品」もあったりするが(ベスト5にすれば、この作品も当然ランクインするだろう)、これは例外なのである。

 というわけで、馳星周『黄金旅程』(集英社)をおそるおそる読み始めた。さすがは馳星周、うまい。終わり間近に平野敬が「次のレースで勝ってくれ」と、希代の癖馬で、気が向かないと走らないエゴンウレアに話しかけるシーンが出てくるけれど、そのとき私も、そうだよお前、この次くらいは真面目に走れよ、と言いたくなった。読者にそう思わせるのが、この小説の力だ。

 しかし、そのうまさは認めても、競馬をこういうふうに語ることは好きではない。この小説に感動する自分もイヤだ。宮本輝『優駿』のうまさは認めても、好きになれないことと同じといっていいが、不満をもう一つ重ねれば、この小説に濡れ場は不要だ。

 榎本憲男『マネーの魔術師』(中公文庫)は、不思議な小説だ。和歌山県の山中にある木工房がとりあえずの舞台。ここにあらわれるのが、黒木という謎の男。正体不明でよくわからないが、とにかく金はふんだんに持っている。で、サブプライムローンはなぜ破綻したのか。金融資本主義とは何か。さまざまな議論が始まっていく。いや、議論じゃないな。黒木の講義が始まるのだ。何なんだこれ。

 榎本憲男が『巡査長 真行寺弘道』の作者であることを急いで書いておく。五三歳で捜査一課のヒラ刑事を主人公にしたこのシリーズはただいま五巻書かれているが、そこにわき役として登場するのが、天才ハッカーの黒木。つまり本書『マネーの魔術師』は、「巡査長 真行寺弘道」シリーズのスピンオフ長編である。このシリーズ、とにかくヘンな小説で(これは私の場合、褒め言葉だ)、その分だけ新鮮なのだが、本書も例外ではない。物語がどこへ向かっているのかさっぱりわからないが、読み進むうちに、どこだっていいじゃん、という気になってくる。ヘンなの。

 ノンフィクションでは、佐藤ジョアナ玲子『ホームレス女子大生川を下る inミシシッピ川』(報知新聞社)が面白く(ウンチを袋につめて持つとほかほかと温かく、カイロ代わりに暖をとったというエピソードがいい)、小説では町田そのこ『コンビニ兄弟2』(新潮文庫nex)が相変わらず読ませるが(海外のどこかの山に籠もっている長兄一彦、エジプトあたりにいる四兄の四彦は、いつ登場してくるんだろう)、もうスペースがあまりないので、急いで、神田茜『下北沢であの日の君と待ち合わせ』(光文社)に移りたい。

 古いアパートで一緒になった女子四人の青春の日々が、とてもリアルに描かれていく小説だ。この小説を読みながら、わけもわからずざわざわしてくるのは、ある種の喪失感が、この小説の底を静かに流れているからだろう。楽しいことは続かないのだ。恋も終わり、仲間とも衝突し、私たちはみな大人になっていく。その当たり前のリアルがここにある。下北沢に実在したパン屋さん「アンゼリカ」(二〇一七年に閉店)を舞台にしているので、当時を知っている人には懐かしいかも。

 今月の最後は、邦枝完二『おせん 東京朝日新聞夕刊連載版』(真田幸治編/幻戯書房)。小村雪岱の挿絵五九点+カット八点完全復刻、というのがこの本の特徴で、それらは雪岱の代表作と言われている。昭和八年の作品だが、いま読むと中身も異色。水茶屋の娘おせんの家を男二人が覗いている場面から始まり、おせんの足の爪を集め、薬罐で煮るシーンまであるのだ。煮ているのは浮世絵師鈴木春信の弟子春重。その匂いを嗅ぎながら、おせんの腰から下の絵を描くのである。その匂いは長屋の隣人の不評を買うが、春重は知らん顔。こう言ってよければ変態すれすれ小説だ。

 もっともそれは冒頭の趣向で、メインとして描かれるのは、おせんの悲恋。雪岱の絵と一緒に読むと、次第に引き込まれていくから不思議である。

 ちなみに本書の解説(真田幸治)では、埼玉県立近代美術館で二〇〇九年に行われた小村雪岱展の図録『小村雪岱とその時代』の、「おせん」の挿絵で二万部も新聞の購読部数が伸びたと伝えられているほどだ、という記述の誤りを指摘しているのが興味深い。この語り手が不明の伝聞の証言は、この図録以降、いろいろな論考で引用されていたらしいのだが、真田幸治はそれを克明に調べて、ついに誤りであることを発見するのである。研究者というのはすごいな、と感服するのである。

(本の雑誌 2022年3月号掲載)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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