恐怖感と郷愁をたたえた『塩の湿地に消えゆく前に』に◎!

文=吉野仁

  • 黒き荒野の果て (ハーパーBOOKS)
  • 『黒き荒野の果て (ハーパーBOOKS)』
    S・A コスビー,加賀山 卓朗
    ハーパーコリンズ・ジャパン
    1,210円(税込)
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  • ジグソー・キラー (ハーパーBOOKS)
  • 『ジグソー・キラー (ハーパーBOOKS)』
    ナディーン マティソン,堤 朝子
    ハーパーコリンズ・ジャパン
    1,480円(税込)
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  • アリスが語らないことは (創元推理文庫 M ス 16-3)
  • 『アリスが語らないことは (創元推理文庫 M ス 16-3)』
    ピーター・スワンソン,務台 夏子
    東京創元社
    1,210円(税込)
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  • 森から来た少年 (小学館文庫 コ 3-3)
  • 『森から来た少年 (小学館文庫 コ 3-3)』
    ハーラン・コーベン,田口 俊樹
    小学館
    1,386円(税込)
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  • 塩の湿地に消えゆく前に (ハヤカワ・ミステリ 1975)
  • 『塩の湿地に消えゆく前に (ハヤカワ・ミステリ 1975)』
    ケイトリン・マレン,国弘 喜美代
    早川書房
    2,090円(税込)
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 近年ずっと翻訳を待ち望んできた作家がいた。あちこちで名前を見かけるうえ、どうも本格的な犯罪小説を書く黒人作家だということを知り、期待は高まるばかりだった。その作家S・A・コスビーによる第二長編の登場だ。『黒き荒野の果て』(加賀山卓朗訳/ハーパーBOOKS)は、二〇二一年マカヴィティ賞、アンソニー賞など、海外の文学賞を数多く受賞した話題作である。だが、いざ読み始めると驚いた。なんら新味がない。設定や細部がみなどこかで読んだことのあるような小説なのだ。あとがきで加賀山氏が指摘しているとおり、"古い革袋に新しい葡萄酒"を入れたとしか言いようがない。

 町で自動車修理工場を営むボーレガードは、かつて裏社会でその名を知られた凄腕のドライバーで、強盗の逃亡用の車を運転していたが、いまは妻や子供たちとともに暮らす堅気の男でいた。だが、生活が苦しくなったことから、やむなくある仕事を引き受けることになった。あっさり片付けて、それで最後にするはずだった......。宝石店を襲う犯罪やカーチェイスが出てくるクライムものなど珍しくもないだろう。親子をはじめ家族の関係が物語に影を落としていたり、ドツボにはまり、のっぴきならない状況へどこまでも追い込まれていったりする展開など、これまでいくらでもあった。ところが、それでも先を読まずにおれない。場面のひとつひとつがていねいに書きこまれているせいだろうか。主人公が愛車で走る場面をはじめ、熱気をはらんだ描写が少なくない。どれほど使い古された革袋入りの酒だろうと、こんなに飲むほどに身体を熱くさせ酔わせてくれるならどんどん注いでくれ。この作家をもっと読みたい。

 過去の名作を下敷きにしたといえば、ナディーン・マティソン『ジグソー・キラー』(堤朝子訳/ハーパーBOOKS)もまた『羊たちの沈黙』に代表される服役中のサイコ猟奇王と捜査官らとの攻防を描いたものだ。テムズ川でそれぞれ異なる被害者のものと思われる人体の一部が発見された。連続殺人事件を専門に扱う部署のヘンリーはさっそく現場へと向かう。検死の結果、身元不明の死体に、特徴的な印が刻まれていたことが判明した。それは二年まえに逮捕された凶悪犯ジグソー・キラーことオリヴィエが七人の被害者の身体に残していたのと同じ形だった。新たな模倣犯の出現か、それともオリヴィエが事件に関係しているのか。本作の大きな特徴は、黒人女性の警部補が主人公をつとめるということだ。彼女とコンビを組むのはインド系の若い刑事。こちらも話の骨格こそありふれているが、細部の描き方や盛り上がる展開の妙で読ませていくサスペンスである。

『そしてミランダを殺す』で一躍人気となったピーター・スワンソンの新作『アリスが語らないことは』(務台夏子訳/創元推理文庫)は、父親の死を不審に思った大学生の主人公ハリーとその美しい継母アリスをめぐる物語。アリスの過去が次第に明らかになっていくとともに、意外な犯人が浮かびあがってくる。作者の第四作にあたる長編だが、現在と過去を交互に描くことで生まれるサスペンスやプロットのひねりだけではなく、印象的な土地の風景描写、陰影の深い人物の登場など、これまでにない風格を感じさせられた。作者のこれまでの作品が気に入っていれば、裏切られることはないだろう。

 ハーラン・コーベン『森から来た少年』(田口俊樹訳/小学館文庫)は、行方不明となった少女を捜すという定番の物語を軸としながら、斬新な設定とベテラン作家ならではの筆力で読ませていく。主人公のワイルドは、なんと三十四年まえに森で発見された野生児だった。元特殊部隊員でその後は警備関連会社の調査員をつとめたが、いまはある山の麓で自活していた。そこへ訪ねて来たのが刑事弁護士ヘスターだった。彼女の孫マシュウがクラスメイトの失踪を心配しているという。一度は解決したかに見えた事件は、思わぬ展開をみせていく。強烈な個性をもつ人物の登場と興味深いエピソードがつづくため、たちまち物語に引き込まれる。コーベンに失望させられることはない。

 最後に、今月もっとも魅力的なミステリだったのが、ケイトリン・マレン『塩の湿地に消えゆく前に』(国弘喜美代訳/ハヤカワ・ミステリ一)である。『森から来た少年』と同様、少女の失踪事件をめぐるミステリで、物語の舞台もおなじニュージャージー州ながら、こちらは海岸沿いのボードウォークが観光名所として知られるアトランティックシティだ。あるとき、少女クララが叔母と営んでいる占いの店に、男が訪ねて来た。高校生の姪が三カ月まえから行方不明だという。クララは街じゅうに貼られたポスターで彼女の顔と名前に見覚えがあった。一方、故郷に戻ってきたリリーは、カジノホテルのスパ施設で働くことになった。やがて不吉なビジョンが見えることに悩まされたクララは、知り合ったリリーに助けを求めた。

 あくまでリアリズムにより物語は進行していくが、海のそばの湿地にうち捨てられた女性の死体の視点で語られたり、超自然的な能力をもつ少女の苦悩と成長がつづられていたりすることで、どこかスティーヴン・キングの少年少女ものに似た恐怖感や郷愁などの味わいが残る。また本作は、二〇二一年度エドガー賞最優秀新人賞受賞作であり、同年の最優秀長篇賞『ブート・バザールの少年探偵』、同賞ノミネートの『女たちが死んだ街で』などと類似した面も感じられた。すなわち、主人公たちが街で過ごす日々を色濃く描くことで、多発する犯罪の本質を浮かびあがらせようとしているのだ。注目の一作である。

(本の雑誌 2022年4月号)

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●書評担当者● 吉野仁

1958年東京生まれ。書評家。おもにミステリを中心とした小説や本の書評、文庫解説などを執筆。

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