早見和真『八月の母』に力がむくむく湧いてくる!

文=北上次郎

  • 図説 江戸のエンタメ 小説本の世界
  • 『図説 江戸のエンタメ 小説本の世界』
    深光富士男
    河出書房新社
    3,080円(税込)
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  • 田沼意次 百年早い開国計画 海外文書から浮上する新事実 (文藝春秋企画出版)
  • 『田沼意次 百年早い開国計画 海外文書から浮上する新事実 (文藝春秋企画出版)』
    秦 新二,竹之下 誠一
    文藝春秋企画出版部
    1,700円(税込)
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  • 浪曲は蘇る:玉川福太郎と伝統話芸の栄枯盛衰
  • 『浪曲は蘇る:玉川福太郎と伝統話芸の栄枯盛衰』
    杉江 松恋
    原書房
    2,200円(税込)
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 いやあ、すごいなあ。早見和真『八月の母』(KADOKAWA一八〇〇円)だ。最近は、ストーリーを紹介すると、それだけでネタばれになってしまうので、詳しく紹介できない小説が多いのだが、これはその典型で、ホントに困る。二部構成の小説だが、ここで紹介するのを第一部の途中までにしておくのはそのためだ。

 まず第一部では、親の愛に恵まれない美智子という女性の波瀾の人生が描かれる。そうか、この女性が主人公なのかと思うと、そうではなく、物語の主役は美智子の娘エリカにバトンタッチされていく。友達のいないエリカの少女時代が描かれるのだ。ようするに、この母と娘はともに愛に恵まれないヒロインなのである。このパートも読みごたえたっぷりであること。美智子とエリカの孤独が胸に迫ってくること──を、ここでは書くにとどめておく。

 第一部の終わりでは、二二歳になったエリカの働く酒場に博司がやってきて、二人の関係が始まっていくが、ここは博司の側から描かれるので、少女時代から二二歳までの間に、エリカに何があったのか、美智子はどうしているのか、すぐには明らかにされない。

 圧巻は第二部だ。ここで何が起きるのかはいっさい書けないが、すごいぞ。これまでもほとんどその内容を書いていないのに、この先も紹介できないのでは何も書いてないのと同じだが、仕方がないのだ。ここは早見和真を信じて読んでいただきたい。

 一つだけ言えるのは、プロローグに登場する女性が誰なのか(途中に何度もこの女性の現在が挿入される)、明らかにしないまま物語が進んでいくのだが、これが本書のキモだということだ。ラストに判明する、この隠れヒロインの強い覚悟と意思の力に、むくむくと力が湧いてくる。

 何が起きたのか明らかにしないまま進めていく構成のうまさと人物造形の秀逸さ、そしてラストの感銘まで、まったく申し分がない。早見和真の傑作だ。

 一つだけ書き忘れた。この『八月の母』は四月四日発売で、この号が書店に並んだときにはまだ刊行されてない。ほんの少しだけお待たせするが、待っただけのかいはある、と思う。

 同じ頃に書店に並ぶはずの瀧羽麻子『博士の長靴』(ポプラ社)もいい。これは一九五八年から二〇二二年までの藤巻家を、六つの短編を積み重ねて描く連作長編で、語り手は藤巻家の隣に住む主婦を始め、次々に入れ代わっていく。その語り手の日々を描く中に、藤巻家の人間の変化がさりげなく描かれていくという構成だ。

 特に変わった日々ではない。私たちがそうであるように、小さな幸せと小さな哀しみを積み重ねていくような、普通の日常だ。特徴は、そういう日々を作者がゆったりと描いていること。一族の長が気象学者で、いつも空を見上げている男なので(朝起きたらまず空を見るのが彼の日課なのだ)、やや世間離れしていることはあるかもしれない。藤巻家には二十四節気ごとに決まり事があるというのもいい。たとえば、立春(二月四日ごろ)にはすき焼きと赤飯を食べる。藤巻家ではこういう習慣をずっと守っているが、時代が下ると焼肉を食べに行く者もいて、その話を聞くと一族の中には面白くないと思う老人もいたりする。しかしいちばんの長老(それが気象学者の藤巻昭彦だ)は「どっちも肉だ」と言うのだ。いいなあこれ。

 小説外で印象に残ったのは次の三冊。①深光富士男『図説江戸のエンタメ 小説本の世界』(河出書房新社)と、②秦新二・竹之下誠一『田沼意次 百年早い開国計画』(発行文藝春秋企画出版部/発売文藝春秋)と、③杉江松恋『浪曲は蘇る 玉川福太郎と伝統話芸の栄枯盛衰』(原書房)だ。①は、江戸時代中期以降の大衆小説(文+挿絵のセットが基本だった読本、黄表紙、合巻)をその絵とともに紹介する本で、挿絵を見ているだけで飽きない。②は、幻の一一代将軍・徳川家基を殺したのは誰か、という章が興味深い。③は、浪曲の世界の、五〇年間の意味と変遷を教えてくれる書。これは別の機会を作り、もう少しスペースのあるところで紹介したい。

 というわけで、今月のラストは、朝比奈あすか『ななみの海』(双葉社)。朝比奈あすかは、二〇〇六年に「憂鬱なハスビーン」で群像新人文学賞を受賞してデビュー。それを含めてこれまで一八冊の小説を上梓。他にノンフィクションが一冊あるので、今回が二〇冊目の本になる。私、何冊か読んでいるはずだが、いい読者ではない。にもかかわらず本書を手に取ったのは、これは読んだほうがいいとの声がどこかから聞こえてきたからだ。

 最初に書いておくが、物語の枠組みに新味はない。児童養護施設から学校に通っている女子高生ななみを主人公とする長編で、文化祭に施設の子がやってくると激しく動揺する。自分が施設の子であることを隠しているからだ。ななみの目標は医大に進んで、将来は医者になることだが、それも医者がみんなよりも「上」にいる人間のような気がするから、というヒロインである。その主人公が少しずつ変わっていく姿を描いていく長編なのだが、特に目新しい話ではない。

 うまいなと思うのはこの先だ。予想した通りの展開になるのだが(つまりヒロインが変わっていく)、その変化が滑らかに、リアルに、説得力をもって描かれるのだ。ようするに、枠組みは平凡でも中身が濃い。

 この小説が強い印象を残すのは理髪店の娘みえきょんを始めとして人物造形が素晴らしいからでもあるが、中でも浅見君のキャラがいい!

(本の雑誌 2022年4月号)

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●書評担当者● 北上次郎

1946年東京生まれ。明治大学文学部卒。1976年、椎名誠と「本の雑誌」を創刊。以降2000年まで発行人とつとめる。1994年に『冒険小説論』で日本推理作家協会賞受賞。近著に『書評稼業四十年』(本の雑誌社)、『息子たちよ』(早川書房)がある。

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