額賀澪『タスキメシ 五輪』で東京オリンピックを振り返る

文=松井ゆかり

 駅伝ファンにとって、年始はニューイヤー&箱根という二大大会が開催される時期だ。しかし、駅伝がない一年の大半の日々、私たちは何に楽しみを見出せばいいのか。そこで、選手たちを食事という面から支える人々を中心に、長距離競技の持つ魅力を伝えてくれる『タスキメシ』シリーズの出番ですよ。

 額賀澪『タスキメシ 五輪』(小学館)は第三作。二部構成になっており、物語の中心にはオリンピックの存在がある。前半は、二〇二一年の東京オリンピックの選手村が舞台。主要人物は、大学時代に箱根で十区を走った経験を持つ鶴亀食品の食堂運営部門勤務の仙波千早と、勤めていた和食料理店がコロナ禍で閉店することになったため選手村の食堂スタッフに応募した井坂都。選手村というオリンピックの重要拠点で働きながら、「このオリンピックの意義とか、開催の是非とか、自分がそこに関わることの正しさとか」を考えずにいられない千早。コロナ禍より前には楽しみにしていた「オリンピックを開催するために踏みつけにされてきたという感覚」を拭えない都。しかしながら、選手村では次から次へと予想外のトラブルが発生し、それらに懸命に対処する中で千早と都の意識にも変化が。

 後半の視点人物である眞家春馬と藤宮藤一郎は、マラソン競技で次のオリンピックへの出場を目指す実業団の選手。すでに過去のものになっているにもかかわらず、春馬に「やっと、俺達は東京オリンピックから解放されたのだ」という感慨を抱かせるほど、オリンピックというものの持つ意味は大きい。所属チームの活動休止に心が折れそうになり、他チームの部員であっても我がことのように意気消沈し、それでも走り続ける彼らの胸中は...。

 東京オリンピック開催の是非について、たぶん万人が納得できる明確な答えが見つかることはないだろう。それでも、選手たちや現場のスタッフたちにとっては、がむしゃらに全力を尽くして走り抜けた盛夏の日々であったに違いないと私たちは本書によって知ることができる。

 知らなかったことを知るのも読書の醍醐味といえよう。たとえば、現代の日本において刀剣の持つ意味やそれらを作る刀鍛冶たちの気持ちなどについて、天沢夏月『青の刀匠』(ポプラ社)を読むまで考えたこともなかった。冒頭は、息苦しくなるような火事の描写。炎の海となったアパートから助け出された沙コテツは、自分を安全な場所まで移動させた後でよその子どもを助けに戻った父が、意識不明になっていると知らされた。いつ意識が戻るかわからない父のかわりに後見人となってくれた剱田かがりと暮らすため、コテツは島根へと向かう。かがりは日本で唯一といえる女性の刀鍛冶だった。

 コテツは火事で大きな火傷を負い、左頬の目立つ部分にも痕がある。転入する予定の高校へ通う心の準備ができているのかと案じるかがりに、コテツは問題ないと言い切ってみせた。しかし、登校初日に教室に足を踏み入れてすぐに、同級生たちからの視線に耐えきれなくなったコテツは学校を飛び出してしまう。そのまま登校できずにいたコテツは、「学校に行かんゆうなら、その分は働いて返してもらう」とのかがりの言葉に従って彼女の仕事を手伝うことに。

 かがりのもとでは他に、親切で気さくな横山コウという男性と、あまり愛想のよくないカンナという女性が働いていた。カンナになぜここで働くのかと問われても、コテツは満足に答えを返せない。それでも、最初はかがりに言われたからしかたなくというスタンスで働いていた彼が、徐々に成長していく様子には胸を打たれる。美術品・工芸品という位置づけでありながら人の命を奪う武器となり得る刀を打つことの意味、あるいは家族との向き合い方や将来進むべき方向について、真剣に答えを見つけようとするコテツの姿には読者も学ぶところが大きいと思う。

 知らない方が幸せということもまた、世の中には存在する。桂望実『息をつめて』(光文社)の主人公・土屋麻里は、何かから逃げ続けている。パチンコの景品であるメダルを偽物だと見破って、店長から感謝された景品交換所の仕事も捨てた。利用客が亡くなり、殺人が疑われる現場となった連れ込み宿の清掃の仕事も捨てた。抱えた苦悩を誰かに相談することもできず、孤独を深める麻里。最後に彼女が下した決断については、賛否が分かれるだろう。それでもひとりの人間のできることには限界があり、より大きな悲劇につながる可能性を断ち切れたと考えれば、しかたのないことだったのかも。

 多彩な恋愛遍歴とは無縁の超アナログ人間には、まず知る機会のないこともある。安堂ホセ『ジャクソンひとり』(河出書房新社)は、アフリカと日本にルーツのあるブラックミックスの青年たちの物語。スポーツブランドの企業に併設されたフィットネスセンターでマッサージの仕事をしているジャクソンが、急に秋めいた気候に合わせて、いつどうやって手に入れたかも定かでないロンティーを着たことが物語の発端。実はそのロンティーにはQRコードがプリントされており、それがひょんなことから他人のカメラによって読み取られてしまう。すると、再生された動画には、ジャクソンと思われる人物の過激な性行為が映っていて...。あまりにも遠い世界の話でいっそファンタジーかと思えるようなストーリー展開だが、非「純ジャパ」というカテゴライズやジェンダーの問題(ジャクソンたちはゲイ)に関して鈍感でいてはならないと自戒させられた。皮肉とユーモアとスタイリッシュさが絶妙にブレンドされた、驚きのデビュー作。

(本の雑誌 2023年2月号)

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●書評担当者● 松井ゆかり

1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。

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