一度も会話のない母娘の物語 朝比奈秋『植物少女』

文=松井ゆかり

 春は始まりの季節。今月は"新人作家祭り"ということでお届けしたい。全員二〇二〇年以降のデビューというフレッシュなみなさんである。

 朝比奈秋『植物少女』(朝日新聞出版)は、一度も会話をしたことのない母娘の約四半世紀にわたる物語。母・深雪は主人公の美桜を出産したときに発症した脳出血により、「大脳のほとんどが壊死した。自分の全てを失い、生きるための機能だけが残」った状態。

 医師でもある著者は、二〇二一年に「塩の道」で第七回林芙美子文学賞を受賞。受賞作が収録されたデビュー作『私の盲端』でも大腸癌によって人工肛門となった女子大生を描いている。いわゆる植物状態であっても深雪のように咀嚼をしたり反射的な動作をしたりするということも、本書で初めて知った。

 乳児だった美桜は心身ともに成長する。美桜の生活範囲が広がるにつれて、母と過ごす時間は減っていった。もし深雪が通常の状態であれば、母と娘の仲睦まじい語らいや、あるいは反抗期の軋轢といったものもあり得たに違いない。たとえ取るに足りないようなことであっても、会話という双方向のコミュニケーションができることのありがたさを忘れてはならないと思った。

 美桜の父と祖母(すなわち深雪の夫と母)の苦悩や愛情、深雪の担当看護師たちの戸惑いや思いやりといったものも、大仰にではなく淡々と描かれる。抑制された筆致だけに、登場人物たちの抱える喪失感がよけいに胸に迫る一冊。

 菰野江名『つぎはぐ、さんかく』(ポプラ社)は、第十一回ポプラ社小説新人賞受賞作。「△」(読みはさんかく)という、惣菜とコーヒーの店を経営しているのはヒロと晴太と蒼の三人家族だ。蒼はまだ中学三年生。調理担当がヒロ、コーヒーを淹れること・配膳・経理などは晴太と、店は実質的にふたりで切り盛りしている。このままこんな暮らしが続けばいいとヒロは思っていた。しかし卒業後の進路についての面談で、蒼は高校には進学せず専門学校に行きたいと言い出す。しかも、寮のある学校に入るので家を出たいのだと。

 保護者がいないながらもけなげに生きる三人きょうだいが奮闘する物語、と多くの読者が予想するであろうストーリーにはしかし、彼らが抱える複雑な事情が秘められていた。三人を取り巻いているのはかなり特異な環境で、果たして現実にもあり得るものなのかどうかわからない。それでも、形は違えど三人のように困難な人生を送っている人もいるだろう。ほとんどお互いだけを頼りに生きてきた彼らが、少しずつ広い視野を得ていく様子に胸を打たれる。

 第五七回文藝賞優秀作『星に帰れよ』に続く二冊目の単行本が、新胡桃『何食わぬきみたちへ』(河出書房新社)。語り手はふたり。大学生の伏見は帰省中に道を歩いていて、石垣の上から古びた鉄パイプを落とした男に出会う。謎の言葉を発する男に動揺した伏見は足早にその場を立ち去ろうとするが、通学カバンを背中にぶつけてきた女子によって行く手を阻まれ、彼女が「ツボイさん」と呼ぶ男の機嫌が直るまでその場に留まることを強いられる。翌日、同じく帰省中の友人・大石とともに、伏見は部活OBとして母校を訪れた。母校には、特別支援学校の生徒が週一で登校する「分教室」がある。在学中、分教室の生徒たちにいじめのような行為をして問題になった同級生の古川と、彼を真っ向から糾弾したときの大石の姿を思い出す伏見。

 次に語り手となるのは敦子。敦子の家には、小説家(であるらしい)の父と家計を支える母と分教室に通う兄・かっちゃんがいた。敦子は兄を愛している。しかし、障害を持つ兄がいることを他人には打ち明けられない。伏見に対して、兄をツボイさんと呼び、とっさに他人のふりをしてしまったように。

 障害者にどのように接するかというのはデリケートな問題とされていて、私を含め正解がわからないと感じる人も多いと思う。それでも本書を読んで、意識しすぎないことも重要なのかもしれないという気がした。家族にとってはともに暮らすことが日常であるし、いわゆる健常者同士だって人間関係での悩みは尽きない。ラストに書かれた敦子の心情は、誰もが当事者として読むべき文章だと思う。

 アラフォー女性ふたりのルームシェアを描くのは、大谷朝子『がらんどう』(集英社)。平井は印刷会社の経理、菅沼は亡くなった犬のフィギュアを3Dプリンターで作る仕事をしている。ふたりはもともと取引先のスタッフとして知り合い、お互い二人組のアイドルグループ「KI Dash」のファンであることがわかって距離が縮まった。その後、コロナで他人と接する機会が減って寂しいと語る菅沼からの提案により、同居に踏み切る。

「これまでの人生で、わたしは男性に一度も恋愛感情を抱いたことがない」と平井は振り返る。それでも、気のおけない菅沼と住んでいても、結婚や出産を「諦める」ことができずにいた。先の見えない未来は怖い。でも、夫や子どもがいれば心配がないわけではない。平井に限らず、周囲の目といったものを気にして結婚や出産にこだわっている人がいるなら、そのような固定観念からみんなが自由になれたらいいと思う。本書は、第四六回すばる文学賞受賞作(「空洞を抱く」を改題)。

 世の中にはこんなにも多くの家族のありようが、そして個人の思いが存在すると改めて思い知らされた。誰しも、他者の気持ちを完全に理解することはできない。それでも、自分と異なる考えを持っているという事実を受け入れてこそ、より相手の心に近づけるように感じた。

(本の雑誌 2023年4月号)

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●書評担当者● 松井ゆかり

1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。

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