型破りで胸躍る評伝小説門井慶喜『文豪、社長になる』
文=松井ゆかり
本誌の読者であれば、「本の雑誌」創刊秘話を熱く描いたカミムラ晋作さんの漫画『黒と誠』(双葉社)を愛読されている方も多いに違いない。そこで、出版社がどのように創立されたかについて史実をもとに描かれた門井慶喜『文豪、社長になる』(文藝春秋)もぜひおすすめしたい。
主人公は、国語で習う文豪の中ではかなりメジャーな菊池寛。文学好きなら、彼が文藝春秋社を興し、芥川賞と直木賞の創設者となったこともご存じかもしれない。しかし、こんなにも型破りで胸躍るエピソードが満載だったことまで知る人は多くないのでは。
今日、菊池作品の愛読者はかなり限られていると思われる。しかし、菊池寛の名前は忘れられてはいない。それは文藝春秋社の社長としての功績によるところが大きい。さらにお伝えしておきたいのが、彼の友情の篤さ。最初の二編である「寛と寛」「貧乏神」は、それぞれ芥川龍之介と直木三十五との交流が描かれている。繊細な芥川・直木と現実的な菊池、という単純な対比ですべての説明がつくわけではない。しかしながら、時機やビジネスチャンスを逃さない商才や必要とあれば思いきった企画立案や改革を行う大胆さのみならず、面倒見のよさや周りへの気遣いも持ち合わせている菊池寛は無敵だったことだろう。こんな有能かつチャーミングな人物がいたからこそ、明治以降の文学界が盛り上がりをみせたのだと、多くの読者に知っていただけたらと思う。
青山文平『本売る日々』(文藝春秋)もまた、江戸時代に出版も手がけたいと夢見る本屋の姿に心を打たれる作品である。この時代に、こんなに多くの本好きがいたことにも驚かされた。松月平助は、本屋を営む商人。月に一回、城下の店から行商に出ている。得意先は「寺と手習所、それになんといっても名主の家」。本書は短編集で、彼らとの会話から知った不思議なエピソードを平助が解き明かしていく。
特に印象的だったのは、「初めての開板」。平助の弟である佐助には、十一歳の娘・矢恵がいる。佐助同様あまり丈夫でなく、幼い頃から喘病に悩まされてきた。平助は得意先の名主から教えられた名医・佐野淇一を紹介しようとしたが、矢恵が現在かかっている医者・西島晴順も相当評判がよいと佐助は言う。しかし、西島晴順が以前は名医にはほど遠い医者ぶりだったことを、平助は知り...。
医者たちが高い志を持っていたことを示した思いがけない真相は、平助の本屋としての矜持を形とすることにつながった。本を愛する心が約二百年前の人々と私たちを結びつけていることに、改めて胸を打たれる。時に登場人物たちが使用する現代人のような言葉遣いも、彼らを身近に感じられるという効果をあげている気がした。
「ビストロつくし」の猫を思わせるギャルソン・颯真は弟、シロクマのようなシェフ・有悟は兄。冬森灯『すきだらけのビストロ うつくしき一皿』(ポプラ社)の主役たちである彼らも、自分たちがキッチンカーで出かけていって料理を提供するスタイルで商売をしている。素敵なレストランやカフェが登場する小説がこれほど多く存在するのは、読者の需要が大きいからであろう。たくさんの本の中から自分のための一冊を選ぶ楽しみを考えれば、こんなんなんぼあってもいいというわけだ。
「おいしい食材を、おいしい時期に、おいしく料理してお出しする」という理想を形にしているのが、ビストロつくし。各地を移動しながらテントで料理を出している彼らは現在、同時に人探しをしている。有悟がどうしても会いたいのは、とても世話になった人。芸術家などを支援するその人物は「翁」と名乗っていて、有悟が前の店を開くための支援をしてくれた。しかし、翁の連絡先はおろか、面識もなければ本名すら知らないという状況で...。
レストランやカフェが舞台の小説では料理の描写が肝となるが、本書はその点も申し分ない。フレンチに詳しくなくても、「ベニエ」や「グジェール」がどんなものかわからなくても、登場する料理がおいしいことは十分に伝わってくる。ファンタジー風の読み心地も楽しい、ビストロつくしでのひとときをご堪能あれ。
会社や店などといった大規模なものでなくとも、私たちは新しい人間関係を構築し続けている。伊藤朱里『内角のわたし』(双葉社)では、最初何が起きているのかと面食らう。サイン・コサイン・タンジェント(三角比!)という名の三人が服を選びながらああでもないこうでもないと品定めをしている様子は、よくあるガールズトークかなと思っていたところ、「あれ、この人たち三人で試着室に入ってんの?」とはっとした。「最近の若い子は友だちの試着にも気にせず立ち合うのか、さもなければよっぽど広い試着室なのか...?」と疑問に思っていると、なんとサインたちは森というひとりの女子の中に存在する三人の「わたし」だということが明らかに。
現代を生きる私たちは、多様性という概念と無縁でいられない。昔とくらべたら、ひとりひとりの個性が尊重されたり自分と違う相手を思いやることの大切さを意識したりするようになってきたことは、たいへん喜ばしくもある。しかし、結局若い女性としての価値といったものを望むと望まざるとにかかわらず意識させられ続ける森を通して、多様性という言葉がかえって息苦しさを感じさせる場合もあるのだと気づかされた。ラストで森が到達した境地については、ほっとするようでもあり、これでよかったのかと考えさせられるようでもあり。
(本の雑誌 2023年6月号)
- ●書評担当者● 松井ゆかり
1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。
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