三浦しをんの筆が冴え渡る『墨のゆらめき』がいいぞ!

文=松井ゆかり

 三浦しをん『墨のゆらめき』(新潮社)は、著者の筆が冴え渡るバディもの。新宿にあるこぢんまりとした三日月ホテルに勤務する語り手の続力(チカ)は、ある夏の日に書家の遠田薫の書道教室を訪れた。ホテルの宴会場で行われる披露宴やパーティーでの仕事を請け負う筆耕士として登録している遠田と、招待状作成についての打ち合わせをするためだ。初めて顔を合わせる遠田は、三十代半ばらしき「役者のようにいい男」。教室に通う小学生たちに慕われている様子はうかがえるものの、書家らしからぬいいかげんな様子に、チカはとまどいを隠せない。生徒のひとりである三木(ミッキー)という小五男子から、引っ越してしまう友だちへの手紙を代筆してほしいと遠田が頼まれる現場に居合わせたため、何故かなし崩しに文面を考えさせられるチカ。面食らうチカだったが、「ご要望があったら全力でお応えする」というホテルマンとしての習性を遺憾なく発揮してしまい、見事に依頼に添った手紙ができあがったのには笑った。

 その後も何かにつけて遠田に呼びつけられたりチカの方から出向いたりするようになり、漫才コンビのように息の合ったやりとりをしながら代筆業に励むのが微笑ましい。遠田の書を目にして、チカは文字というものの奥の深さに魅せられるように。しかし、遠田にはある秘密が...。果たしてチカは、遠田の心に迫れるのか。実直で人のいいチカと、テキトーにみえて親切な遠田が少しずつ心を通わせる様子に胸を打たれた。

 芥川賞候補『我が友、スミス』などで注目を集める新進気鋭の作家・石田夏穂の新刊は『黄金比の縁』(集英社)。主人公の小野は(株)Kエンジニアリングの新卒採用チームの一員。十年前、花形部署のプロセス部から人事部に異動してきた。昨年度からチーム内では最古参となっている。大学では有機を専攻した小野がプロセス部からの異動を余儀なくされたのは、気の毒と言えば気の毒な(しかしコンプライアンス的にはアウトといえる)事情によるものだった。自分が希望していた業務とはかけ離れた新卒採用を続ける中で、小野はある狙いを達成するために、独自の評価軸を用いて就活生の採用/不採用を決定するようになる。その評価軸とは、顔の縦と横の比率が(小野の定義するところの)「黄金比」となっている就活生のみを推すというものだった。

 企業内の非常識・男女格差・ルッキズムなどといった問題点に触れつつも、随所に見られる卓抜なユーモアによってエンターテインメント性の確保にも成功している作品。採用担当たる者は率先して身なりを整えなければならないということで、自らは天海祐希を目指し、同僚のスキンヘッド&口髭に苦言を呈する小野。社外の人間には「○○様」と敬称を忘れず、Kエンジのことは「弊社」と呼ぶ小野。元バックパッカーの後輩を冷ややかに見ている小野。真剣であるがゆえによけいに笑える。最後の最後に下した決断は、果たして彼女自身を救うだろうか。

 たいへんなおかしみに満ちた作品であるのは間違いないことながら、どういった内容であるかを説明するのは非常に難しいのが、山野辺太郎『こんとんの居場所』(国書刊行会)。まずは謎に満ちたブックデザインからご堪能いただきたい(帯の読みづらさ・タイトルその他の文字の小ささ含む)。金に困っている二十五歳の河瀬純一は、スポーツ新聞の求人欄で奇妙な三行広告を見つける。それは要約すると、"渾沌島の取材をする記者を募集している。裸になる必要あり"という内容だった。東京から四時間ほどかけて面接に向かったところ、即決で採用。そのまま帰宅することなく、純一は『こんとん』調査隊の一員となって船に乗り込むが...。

 あらすじを説明するとすればこんな感じなのだが、本書の魅力は要約をはみ出した部分にもあるといえよう。もの悲しくも晴れやか、無常観めいたものが根底にありつつ幸福感も漂うという、本来は同時に存在しないような性質のものが自然に融合した読み心地なのだ。とにかくお読みになって味わっていただきたいとしかいえない。

 併録の「白い霧」もまた素晴らしく、こちらはよりSF色(!)が感じられる作品。

 ここまでの三冊は傾向は違えどそれぞれに笑える作品であったが、雛倉さりえ『アイリス』(東京創元社)は息をするのもためらわれるような張り詰めた物語。二部構成のそれぞれの語り手は、元子役の茂木瞳介と映画監督の漆谷圏。彼らはかつて『アイリス』という映画を撮るため、ともに撮影現場で時を過ごした。『アイリス』は高い評価を得て、数々の映画賞を受賞。しかし、瞳介はその後俳優としての限界を感じて芸能界を引退し、現在は大学に通っている。一方、漆谷は映画監督を続けてきたが、『アイリス』を越える映画を撮りたいという思いにずっと囚われていた。そんな彼らにはある共通点がある。それはふたりとも、瞳介の妹役を演じた梨島浮遊子と関係を持っていること。

 人生の早い時期にピークが来てしまい、そこを超えられないことに焦りや痛みを感じている者たちの苦悩が切実に書かれる。多くの人間にとって、はっきりとした絶頂が人生に訪れることなどないことを思えば、選ばれし者たちのぜいたくな悩みともいえるだろう。けれども、彼らの焦燥や苦痛を自分の身に引きつけて想像することは可能だ。誰しも完璧な一生を送ることはあり得ず、私たちは等しく不完全なのだから。人と人とが理解し合うことの難しさ、たとえ理解し合えなくても寄り添って生きていけることの不思議さを思わずにいられない一冊。

(本の雑誌 2023年8月号)

« 前のページ | 次のページ »

●書評担当者● 松井ゆかり

1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。

松井ゆかり 記事一覧 »