王谷晶『君の六月は凍る』に心をつかまれる!
文=松井ゆかり
王谷晶『君の六月は凍る』(朝日新聞出版)の表題作は、「君の六月は凍った」という一文から始まる。冒頭から否応なく心をつかまれるこの作品において、主人公の「わたし」をはじめ登場人物たちは固有名詞を持たず、性別も判然としない。
久しぶりに「君」を思い出した「わたし」は、最後に顔を見てから三十年も経っていることに驚く。ふたりは、彼らが生まれ育った故郷で出会った同い年の子ども同士だった。「わたし」は、自分がもう何年も戻っていないあの町に、「君」が留まっていたことを知る。
「わたし」には、四つ上のきょうだいである「B」がいた。あの町で育った者はみんな、近くの学校に行くか、そうでなければ町中の施設で働くかのどちらか。しかし、「わたし」よりもはるかに優秀な「B」は、遠くへ行くことが決まった。大好きな「B」と別れるのがつらくてその頃毎日機嫌が悪かった「わたし」は、ある日校庭の端にある鳥小屋でスケッチをする「君」と初めて言葉を交わす。
「わたし」が見かける「君」はいつも一人。でも、いざ話してみれば「君」は異物扱いされるのもしかたないほど「素敵な人」だった。
あるとき鳥小屋で卵から「鶏の子供」が孵った。二羽のひよこのことは学校でも話題になったけれど、ほんとうは三羽生まれていて、その中の一羽を「君」が盗んで家に連れて帰った。そのことは、ふたりと「君」のきょうだいの「Z」だけの秘密だった。
そして、あるできごとが起きた。
小説を読みながら登場人物のことを思い浮かべるとき、私はその性別を、性別がはっきり書かれていない場合は名前を大きな手がかりとしてきた。この作品について、そのやり方は通用しない。が、読み進めるうちに、誰が男だろうが女だろうが気にならなくなった。こんなに情報が少ないにもかかわらず、彼らは私にとってすぐそこに存在しているかのようだった。私はきっと、この純粋で残酷な物語を忘れることはないだろう。
同時収録の「ベイビー、イッツ・お東京さま」はまったく趣の異なる、若い女性が置かれた過酷な状況を描いたリアルな質感の物語。王谷晶という作家が書き続けてきたジェンダーに関する問題を強く意識させられる二編、いずれも素晴らしい。
前作『死神を祀る』でも、神社を舞台に現実から少しはみ出したような世界観の作品を描いた大石大。『校庭の迷える大人たち』(光文社)も、学校での奇妙な物語を集めた短編集となっている。
夏にぴったりの怪談...というにはハートウォーミング。例えば「シェルター」という作品の主役は、授業参観のため小学校に足を運んだ幹太。息子の颯太が班の中心となって意見をまとめたり活発に発言したりしている姿は、親として喜ばしいもののはずなのに動揺を抑えられない。実は母校でもあるこの学校で、小学生だった頃の幹太は不思議な体験をしたのだった。
確かに合理的な説明のつかない不思議なことが起きているのだけれど、それらの現象をどう受け止めて自分の中で消化していくかというところが細やかに描写されているのが印象的。主人公がかつて学校に通う子どもだった「大人たち」であるというところも、物語に深みを与えていると感じた。
伊地知正治という人物をご存じの方は多いのだろうか。私は不勉強でまったく知らなかった。谷津矢車『ぼっけもん 最後の軍師 伊地知正治』(幻冬舎)の主人公は、類いまれな策略家と称された人物とのこと。
物語の冒頭、時代はすでに明治の世となっており、伊地知は弟子たちと鹿児島で暮らしている。変わり者で人使いの荒い伊地知だが、こと戦に関しては並々ならぬ才気を感じさせる逸話がてんこ盛りである。
伊地知の名前は知らずとも、西郷隆盛や大久保利通といったスター級の人物が次々と登場し、日本史に明るくない読者をも飽きさせない。また、最初のうちは「豆腐のことばっか出てくるけど、ほんとにそんなすごい人なの...?」と怪しみながら読み進めていたのだが、伊地知本人の魅力もじわじわと効いてくる。幕末から明治あたりにかけての傑物たちは(やり方が適切であったかどうかは別にして)、日本の未来をよくしていこうという高い志を持って行動していたのだろうなと改めて感じた。谷津作品では特に、"(インパクトのあるキャラの陰にいるなどして)そこまでは目立たないけれども才能や実力を秘めた人物"を描いた作品が素晴らしいと思っている。
原田ひ香といえば "本"や "おいしい料理"についての作品が多いイメージだが、『図書館のお夜食』(ポプラ社)はダブルコンボ。主人公の樋口乙葉(どこかで見た名前)は元書店員。「本に関係する仕事に就きたい」という希望が叶ったにもかかわらず、職場でのトラブルが続いた乙葉は疲弊してしまっていた。しかし、ひょんなことから就くことになった新しい仕事先が「夜の図書館」。会費制の施設で、開館しているのは夜の間だけ。置いてある本はすでに故人となった作家の蔵書のみ。併設された食堂ではまかないを注文することができ、オーナーの指示で「小説やエッセイの中に入っている料理」が提供されている。マネージャーの篠井弓弦をはじめ同僚はみな親切だし、素敵な環境のように思えるけれども、トラブルが発生することはあって...。
甘いだけの仕事は存在せず、好きで就いた職業であろうと心が疲れてしまうことはある。その事実を事実として受け入れられて初めて、見えてくるものもあるのではないかと思った。
(本の雑誌 2023年9月号)
- ●書評担当者● 松井ゆかり
1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。
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