綾崎隼『この銀盤を君と跳ぶ』の天才を支えた人々に拍手!

文=松井ゆかり

 人が罪を償い、更生することの難しさは、前科といったものとは無縁に生きてきた者でも容易に想像がつく。問題を起こした少年少女たちをサポートする制度のひとつが、補導委託だ。家庭裁判所が少年少女の最終的な処分を決定する前に民間のボランティアの家庭で彼らを預かってもらい、仕事や通学をさせながら一定期間様子をみるシステムで、若者の更生を支援するプログラムにおいて重要な役割を担っていると思われる。

 柚月裕子『風に立つ』(中央公論新社)の主人公は、新たに補導委託先として少年を受け入れると決めた南部鉄器職人の小原孝雄の息子・悟。悟もまた職人として孝雄と同じ職場で働いているが、親子関係はあまりうまくいっているとはいえない。父親が試験的に補導委託を始めるつもりであることに対して悟は反対したが、孝雄は家族に迷惑はかけないからと聞く耳を持たなかった。ともに工房で働く職人・健司や結婚して家を出ている悟の妹・由美も、頑固で言い出したら曲げない孝雄を説得することには非協力的だった。

 そして、彼らのもとにやって来たのが、十六歳の庄司春斗。度重なる万引きや自転車の窃盗などにより、春斗はすでに高校から退学処分を受けていた。息子である自分には優しい言葉ひとつかけたことのない孝雄が、春斗には温かく接するのを見て、悟は複雑な思いを抱く。

 小原家で生活するようになった当初、春斗はおとなしくあまり感情を表さなかったが、徐々に周囲に心を開き始めていた。しかし、抱えていた秘密が明らかになったことで再び心を閉ざし、家を飛び出してしまう。必死になって春斗を探す孝雄にもまた、口に出せずにいた過去があった。自分の心の内を明かし、家族たちが心からわかり合えるようになるのか...。

 家族や近しい人々と理解し合えずに苦しむ人は多い。相手が大切な人であればあるほど、ほんとうのことを言うのが怖い場合もある。だが他人を思いやる心を持てれば、自分自身を助けることにもつながるのだと、この本は教えてくれる。

 スポーツという勝負の世界の厳しさもまた、一般人には計り知れないところのあるものだ。綾崎隼『この銀盤を君と跳ぶ』(KADOKAWA)は、フィギュアスケートの世界に現れたふたりの天才少女たちの驚嘆すべき才能と目覚ましい成長を熱く描いた一冊。

 元フィギュア選手の江藤朋香は、ベンチャービジネス社長と女優の娘である京本瑠璃の指名により彼女の振付師となる。傲慢で協調性が低く周囲からは敬遠されがちな瑠璃だが、小五にして破格の実力の持ち主でもあった。しかし、頂点を目指す彼女の前に立ちはだかる存在がいた。同い年で、往年の名選手を父に持つ雛森ひばりである。常に競い合うことを運命づけられたふたりは、二〇三〇年の新潟オリンピック大会に出場するためのたった一枚の切符をかけて戦うことに。

 実はこの物語において、瑠璃やひばりの視点から物語が語られることはない。そのことがとても新鮮だし、彼女たちのように才能にあふれた人間については、その高みに到達することのできなかった者が外からうかがい知るしかないことの表れかもと切なくもある。中心人物となるふたりに感情移入しづらい分、彼女たちを取り巻く登場人物に共感する読者が多いのでは。ふたりのそれぞれのコーチである朋香と滝川泉美、さらに三十代になっても現役としてフィギュアファンを魅了し続ける加茂瞳。冷静で客観的な判断力に優れながら、フィギュアへの情熱も持ち合わせる彼女たちに拍手を送りたい。

 岩井圭也という作家が幅広い題材をもとに小説を書くことを知る読者は多いだろう。作品の多彩さは、短編集である『暗い引力』(光文社)を一冊読むだけでもうかがえる。

 最も印象に残った作品は、「堕ちる」。三十二歳の相原加奈は、西洋美術の研究者になることを目指していた。しかし夢の実現は遠く、どこでもいいから正規職員の職に就きたいと方向転換することに。採用されたT市の美術館では、着任早々に次の企画展を担当させられることが決まった。予定されていたのは、藤代恒彦という地元ゆかりの画家の回顧展。生涯自分の妻だけをモデルに書き続けた男の歩みをたどるうちに、加奈は思いがけない真実に近づくが...。

 収録されているのはいずれも、人間の心の暗部が鋭く描かれた作品。とはいえひと口にダークサイドを題材にしたといっても、悪事に手を染めたことで押しつぶされそうになる主人公もいれば、あくまでもその道を突き進もうとする者もいる。もちろん実際に間違いを犯す人間は限られているわけだが、本書のようにきっかけはそこここに転がっているのかもと思うと背筋が寒くなる。

 こんなに気が強くて弁の立つ人が身近にいたら周りに引かれそうな女性、それが綿矢りさ『パッキパキ北京』(集英社)の主人公の菖蒲。元銀座のホステスだった菖蒲の夫は、コロナが流行する少し前に中国に赴任していた。日本で遊び回っていた菖蒲だったが、側で支えてほしいという夫からの再三の懇願と根回しにより、二〇二二年に北京に渡ることに。

 中国に行ったら行ったで、夫のお金で買い物しまくり食べまくり。コロナは彼女に何の影響も及ぼさなかったのかと思わずにいられない傍若無人さはもはや圧巻。決して親しくしたいとは思わないタイプだが、自らの信じるところに従って見知らぬ土地でも堂々と行動する度胸のよさやある種の聡明さには感服せざるを得ない。加えて、随所に見られるユーモアのセンスが素晴らしかった(「魯迅」と「魯山人」のくだりとか)。

(本の雑誌 2024年3月号)

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●書評担当者● 松井ゆかり

1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。

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