人の心の複雑さを描く砂原浩太朗『夜露がたり』

文=松井ゆかり

  • 夜露がたり
  • 『夜露がたり』
    砂原 浩太朗
    新潮社
    1,925円(税込)
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  • 方舟を燃やす
  • 『方舟を燃やす』
    角田 光代
    新潮社
    1,980円(税込)
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  • 令和元年の人生ゲーム
  • 『令和元年の人生ゲーム』
    麻布競馬場
    文藝春秋
    1,650円(税込)
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  • 噓があふれた世界で (新潮文庫 し 21-109)
  • 『噓があふれた世界で (新潮文庫 し 21-109)』
    浅倉 秋成,大前 粟生,新名 智,結城 真一郎,佐原 ひかり
    新潮社
    737円(税込)
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 江戸時代と現代ではもちろん衣食住といった環境や道徳規範などの違いがある。しかし、いつの時代も人の心には変わらない領域があること、揺れが生じてしまうこともまた事実だ。

 砂原浩太朗『夜露がたり』(新潮社)は短編集で、さまざまな状況に置かれたさまざまな関係性の人々が登場するが、ハッピーエンドとアンハッピーエンドとどちらかにすっきり分類しづらい結末があるのがリアル。特に印象的だった作品は「死んでくれ」。父親が賭事で作った借金のせいで、働きづめだった母を亡くし、自らもいまだに返済を続けているおさと。ある日彼女のもとへ、十年間行方知れずだった父親の辰蔵が姿を現す。そして三日後、辰蔵が新たに胴元から借りた一両を取り立てるため、堅気には見えない男がおさとを訪ねてくる。母親の供養のためだったと言い訳しつつも、辰蔵は博打をやめられないと打ち明け...。結びの一文はいろいろな読み方が可能に思えるけれども、いずれにしてもおさとの心の闇をのぞき込むことになるのではないか。

 作品によって、善意にカモフラージュした悪意や攻撃と思われそうな共感といったものが見られ、人間の心の複雑さをうかがわせる。

 角田光代『方舟を燃やす』(新潮社)の主人公のひとりである飛馬は、私と同い年。飛馬の記憶に刻まれたコックリさんやノストラダムスの大予言といったオカルト的な存在は、まさに私も震え上がったものだった。もうひとりの主人公・不三子は飛馬や私世代の保護者たちの中で特に若い父母くらいか。

 戦後の復興期は、"働けば働いただけ景気が上向き、暮らしぶりも豊かになる"と信じられた世の中だった。その空気感についても、大人と子どもではやはり受け止め方は違っていたような(私はやはり飛馬に近い)。

 それでも、彼らは確かに同時代を生きてきたのだ。飛馬と不三子の人生はあるときに関わりを持つ(その関わり方も「現実にはそういう感じかも」と思わせる現実味があった)。出会った人々がそれぞれの選んだ道を進んでいくことのかけがえのなさに胸を打たれる一冊。

 麻布競馬場という作家を学歴についてのユーモラスかつ少々悪趣味なインタビューで初めて知った私には、「こんなにリリカルな小説の書き手だったのか」という新たな発見があった。連作短編集である『令和元年の人生ゲーム』(文藝春秋一五〇〇円)には、いわゆる「意識高い系」と形容されるような仕事や地域貢献に意欲的な若者たちが多く登場する。

 感心しながらも実際に対面したらやや息苦しさを感じてしまうであろう彼らと対比させるようなキャラクターとして描かれるのが、全話で活躍する沼田という人物だ。あるときは後輩、あるときは同期...と、さまざまに立場は違えど常に飄々としつつ正論で相手を沈黙させる沼田。ただ、ときどき見せる心の揺れのようなものが彼のセンチメンタルさを表してもいて、それが一面的ではない魅力へとつながっている。その沼田が最終話では...いや、彼が最終的にどのような生き方を選択しているかについては、ぜひお読みになってみていただきたい。

 若いときに理想を追いかけたり頭でっかちだったりするのは、たいていの人々が通る道ではないだろうか。本書でも近年の若者たちの関心事として企業や自分らしく働くことがあげられているわけだが、時代によって興味の対象は違っても、若さゆえの熱量といったものには共通するところも多いに違いない。ここに描かれているのは、いつかの私たちなのだ。

 アンソロジー『嘘があふれた世界で』(新潮文庫nex)の執筆陣は浅倉秋成・大前粟生・新名智・結城真一郎・佐原ひかり・石田夏穂・杉井光というそうそうたる顔ぶれ。パーティーのゲストだってこんなに豪華メンバーが一堂に会することはなかなかなさそう。収録作品に共通しているのは、SNSを題材にしていること。アナログ人間にはよくわからない記述も多いのだが、(おそらく)比較的わかりやすく描写されているし、人と人との関係についてはたとえどんなにIT化が進もうと変わらない部分なのでご安心いただければ(そしてもちろんそこが最大の読みどころ)。

 例えば石田夏穂さんの「タイムシートを吹かせ」。主要人物は、現場一筋で働いてきて六十五歳の定年後も継続雇用された男性社員・通称「レジェンド」と、彼のPC操作のおぼつかなさに業を煮やす若手女性社員・岡本だ。昔ながらの頭の固い大ベテランと、若い(女子)社員であることで理不尽な思いをすることに抵抗しようとするIT強者の岡本の、意地のぶつかり合いと一瞬の連帯に心を震わせていただけたらと思う(まあ、岡本は岡本でヤバい)。

 もう一点お伝えしたいのが、杉井光さんの「君がため春の野に」が『世界でいちばん透きとおった物語』の後日譚であることだ。前作で、推理作家だった亡き父の(存在するかも定かでない)遺稿を探すことになった燈真。本作では、急逝したある作家の妻との出会いから、"夫のSNSがいまだに更新され続けているのはなぜか"という新たな謎がもたらされる。大がかりなしかけが注目された前作とはまた趣が異なり、繊細な謎解きが心に残る一編。

 取り上げた四冊のいずれに関しても、どの時代の人間も生きているのは「いま」だということを強く意識させられた。その時々で時代風俗は違っているものもあれば変わらないものもあるが、もしかしたらいちばん変わり幅が少ないのは人間の心かもしれない。そう考えれば、先の見えない時代でも拠り所を見つけられたような気がしたりしたのだった。

(本の雑誌 2024年5月号)

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●書評担当者● 松井ゆかり

1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。

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