古内一絵『東京ハイダウェイ』に元気づけられる!
文=松井ゆかり
「東京には空が無い」との嘆きが綴られたのは高村光太郎の『智恵子抄』においてであるが、東京には隠れ家(ハイダウェイ)的な穴場スポットがこんなにあると知ったら、智恵子もびっくりするかもしれない。古内一絵『東京ハイダウェイ』(集英社)を読むと、疲れきって悲鳴を上げる前に心を休ませることの大切さがひしひしと伝わってくる。
本書は連作短編集で、語り手はみなもやもやとした思いを抱えている。個人的にシンパシーを抱いたのが、「ジェリーフィッシュは抗わない」の瀬名光彦。彼はほとんどの短編の舞台となっているイーコマース企業・パラウェイに勤務している。光彦はこれまで周囲の要求を受け入れ、流れに逆らわないよう動くことで人生を乗り切ってきた。組織で働く人間の多くは守りに入りがちだし、そういった生き方を誰も責められないと思う(もし私が光彦的なポストにいたら、安全策をとる可能性は大いにある)。しかし、最終的に彼がとった行動は...。
現状維持でやり過ごす方が楽な場面というのは、社会人なら遭遇することも多い。それでも、勇気を出すことで多少なりともよい方向に未来を変えていけるかもしれない。光彦や他の語り手たちの姿に、読者も元気づけられるはず。
メールやLINEといったものが普及し、文房具店のレターセット売り場が縮小されても、届けたい相手を思い浮かべながら選んだ便箋や手書きで書かれた手紙をうれしく思う人は多いだろう。佐原ひかり『鳥と港』(小学館)は、文通を仕事にすることを思いついたふたりの物語。上司のパワハラや意義を見出せない業務といったものに対するつらさが積もりに積もって、春指みなとは新卒で入社した会社を九か月で辞めた。次の仕事を探さなければとわかってはいても、前の職場でのあれこれを思うとなかなか最初の一歩を踏み出せない。ある日買い物に出かけたみなとは、通りかかった公園の草むらに置かれた郵便箱を発見する。中に入っていた一通の手紙から、顔も知らない「あすか」さんとの文通が始まることに。
その後間もなく、ふたりは対面を果たす。「あすか」は森本飛鳥という、学校へ通えていない男子高校生だった。初対面で前の職場の愚痴をこぼし、しかし仕事が苦しくてつらいのは当然なのだと自分を納得させようとするみなと。けれどもそれに対して飛鳥は、自分はおもしろくない仕事などできないと語った。そして、「みなとさんのいいところを活かせて、かつ、おもしろく思える仕事」がないのであれば、ふたりで「文通屋」を立ち上げようと提案する。文通屋『鳥と港』はなんとかスタートにこぎつけ、すべり出しも好調だった。どんな仕事においても楽しいことだけというわけにはいかない現実に直面し、それでも各々が前向きに受け止められるようにもなっていた。にもかかわらず、社会人経験のあるみなととまだ高校生である飛鳥の考え方には、いつしかすれ違いが生じ...。
手紙という手段がなければ、出会えていなかったかもしれないみなとと飛鳥。言葉にして伝えることの大切さをよくわかっているふたりの未来が、明るいものであるように。
学校に行けなくなる理由がさまざまであるのと同様、行けなくなった後どのように行動するかもそれぞれ。彼らの選択肢のひとつにフリースクールがあることを、尾崎英子『学校に行かない僕の学校』(ポプラ社)を読んで知る。あるつらいできごとをきっかけに中学校に通えなくなった薫。自身で入りたいと決めた全寮制の『東京村ツリースクール』で、彼は同い年のイズミや銀河と出会う。イズミは中学受験で第一志望の進学校に入学したが、学校になじめずにいた。さらに母親が再婚して新しい父親との間に弟が生まれたこともあり、家庭でも居心地の悪さを感じている。銀河は実母に育児放棄されていた自分を引き取ってくれた血のつながらない両親に感謝しているものの、彼らが何でも言うことをきいてくれる状態であることについて、このままではいけないとも感じていた。
悩みのない人間はいない。それでもなかなか本心を語れずにいた三人が、寮で生活するうちにお互いのことを知って、相手を思いやる心が育っていく様子に心を打たれた。
本書は出版社のサイトでも児童書として紹介されているが、自分で考えることの大切さが繰り返し語られ、大人の読者も学ぶところが大きいに違いない。
インパクトのある名前や風貌で知られてはいるものの、"実際に何をした人物なのかよくわからない人物"ランキングがあったら上位に食い込むであろう南方熊楠。岩井圭也『われは熊楠』(文藝春秋)は、第一七一回直木賞の候補作にも選ばれた。
自分のやりたいことに突き進んだ少年時代。破格の知識量を誇りつつも、時に自分の衝動を制御できず苦労した青年時代。家庭を持ち家族に愛情を注ぎながらも自分が何者であるかを希求し続けた壮年時代...。世の中のすべてを知りたいと望み、植物や粘菌などに興味を引きつけられていく姿は純粋で、こんな風に脇目も振らず行動できるのがうらやましく思えてくる(実際に関わったら、少々面倒くさそうではあるけれども)。史実に沿った内容になっているとはいえ、彼がどのような心情だったかを完全に再現するのはもちろん不可能なわけだが、豪胆でそれでいて繊細でもある人物がいきいきと描かれていてまるで本人がそこにいるかのような臨場感。膨大な参考文献にあたり、歴史上の人物をモデルに興味深いキャラクターを描きだした、岩井圭也という作家の筆力に圧倒される一冊といえよう。
(本の雑誌 2024年8月号)
- ●書評担当者● 松井ゆかり
1967年、東京都生まれ。法政大学文学部卒。主婦で三児の母ときどきライター。現在、『かつくら』(新紀元社)で「ブックレビュー」「趣味の本箱」欄を担当。
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