河﨑秋子『絞め殺しの樹』の迫力に圧倒される!

文=高頭佐和子

 河﨑秋子『絞め殺しの樹』(小学館)は、タイトルが印象的だ。他の木に絡みつき、栄養を奪いながら締め付け、元の木を殺してしまう蔓性の植物をそう呼ぶのだという。

 昭和十年、幼くして母と祖母を亡くし、新潟の大きな農家で親戚に囲まれて育ったミサエは、生まれ故郷である根室に戻り、祖母の縁者である吉岡家に引き取られることになった。酪農を営む吉岡家で、ミサエは奴隷のようにこき使われ、眠る部屋も食事も満足に与えてもらえない。一家に君臨する大婆さまだけは厳しいものの筋は通っているが、その子や孫たちは病的に意地が悪く身勝手だ。ミサエを心配してくれた出入りの薬売り・小山田のおかげで学校にだけは行けるようになったものの、そこでも他の生徒たちに見下される。全てを諦めたくなる状況だが、ミサエは仕事の合間に勉学にも励む。そんなミサエが気に入らない大人たちから陥れられそうになったところを、小山田に助けられ、札幌の薬問屋で働くことになる。ここには底意地の悪い人間はいない。店主の計らいで、働きながら看護婦の資格も取得するのである。

 めでたしめでたし、と安心するのは早かった。戦後、ある事情からミサエは保健婦として根室に戻り、人間性がさらに歪んだ吉岡家の面々と再会する。使命感を持ち、懸命に働くミサエだが、温かい視線を向けてくれる人は少なく、結婚生活も虚しいものだった。さらに、得体の知れない悪意が原因となり、取り返しのつかない悲劇が起きてしまう。悲しみに暮れるミサエに、根室の人々はゾッとするような言葉を投げつけてくるのだ。なぜミサエばかりがこのような目に?頼むからもうやめてくれえ!と叫びたくなるような理不尽オンパレードである。

 とは言えこの小説は、我慢強い女の不幸を描いただけの小説ではない。ミサエの息子・雄介が主人公となる第二章で、第一章では描かれなかった周囲の人々の思いや、隠されていた事実が明らかになる。土地や家に縛り付けられ、前の世代の因縁に振り回され、暗い感情をぶつけ合う人々。その中で、後悔や怒りを内側に秘めながら、自分を見失わずに生きる人間の力強さ。そして、根室の冷たく乾いた空気や、土の匂い。そのリアリティと迫力にただ圧倒される。読後は、タイトルの意味を繰り返し考えさせられた。

 吉田修一『ミス・サンシャイン』(文藝春秋)は、著者の映画に対する深い愛情が込められた小説だ。大学院生・一心は、教授の紹介で伝説の映画女優「和楽京子」の資料整理を手伝うことになる。戦後肉体派女優として人気を博し、ハリウッドでも活躍した大女優だが、引退し「鈴さん」として静かに暮らしている。自分と同じ長崎出身で、塩辛い恋に悩む映画好きな若者を鈴さんは気さくに受け入れ、次第に華やかな映画界にいた頃の記憶や恋の思い出を、少しずつ語るようになる。

 なんといっても、鈴さんが魅力的だ。血色のよい肌、吸い込まれるような目......。同年代の名女優たちの姿を当てはめてみようとすると、誰にも似ていて、誰にも似ていない気がする。一つ一つの仕草、言葉、表情。その全てが、美しく奥深いと読み手に感じさせてくれる。忘れられない悲しみを抱いて生きてきた一心の繊細な感性は、大女優が今まで語ることのなかったある思いを引き出していく。

 一心はかけがえのない宝物を鈴さんから受け取るが、それは彼だけの所有物ではない。フィクションだからこそ、この小説を読んだすべての人がその宝物に触れることができる。まだ2022年になったばかりだが、心に美しいものが残るこの小説は、今年絶対に読むべき一冊であると宣言させていただきたい。

 李琴峰『生を祝う』(朝日新聞出版)は、出生をテーマにした近未来小説だ。登場人物たちの心の変化はリアルで、ドキュメンタリーを見ているような錯覚に囚われる。胎児に出生意思の有無を確認するための技術が開発された世界が舞台だ。胎児には「生まれない権利」が認められていて、同意を得ずに産んでしまうと「出生強制罪」に問われる。法律ができて二十八年、出生意思を確認された者とされていない者が混在し、多くが法律に従っているが「無差別出生主義者」たちも存在する。そんな中、ある同性婚カップルが生命科学的方法で新しい命を授かる。胎児に出生意思を確認することを、二人とも大事に思ってきたはずだった。ところが妊娠した側は、体内で子が成長している実感と、さまざまな出来事により、その気持ちが大きく揺らいでいく。

 生まれてこなければよかった。好きで生まれたわけではない。という気持ちを、一度も抱いたことのない人はいないのではないだろうか。産む側にも、葛藤があるのだと思う。誰にもぶつけることのできなかった感情や、心にしまっていた思いを刺激され、生きる意味を問い直さずにはいられない一冊である。

 長嶋有『ルーティーンズ』(講談社)は、ある家族の物語だ。緊急事態宣言が発令され変わっていく日常が、小説家の夫と、漫画家の妻の視点で、交互に描かれる。保育園に通わなくなった娘を公園に連れて行き、タブレットの動画やアニメのDVDを見せる。夫が通っていたドラム教室は休みになり、妻はママ友からのマスク販売情報のメッセージを見て買い物に行く。二人で「愛の不時着」を見て、ZOOM呑みに参加する。不審者情報に翻弄される。

 一緒に生活をしていても、それぞれの視点は違う。言葉にしない小さな思いや、やりきれなさを誰もが持っている。そして、同じことを繰り返しながらも、少しずつ違う日々は愛おしい。コロナ禍で少しずつささくれていった心が、穏やかになっていくような読後感だ。

(本の雑誌 2022年2月号掲載)

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●書評担当者● 高頭佐和子

神奈川県生まれ。都内在勤書店員。文芸書担当。

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