角田光代『タラント』は想像をはるかに超えた小説だ!

文=高頭佐和子

 角田光代『タラント』(中央公論新社)について書く前に、まずは『源氏物語』の現代語訳という大きな仕事を、角田氏に依頼した編集者に感謝の意を表したいと思う。ありがとうございます! 全三巻の訳業を成し遂げ、その経験がどう生かされるか楽しみだったが、五年ぶりに挑んだこの長編小説は、想像をはるかに超えている。深く、広く、厚く、力強く......、とにかく圧倒的だ。

 主人公のみのりは、夫と二人暮らしの女性である。二十年前、大学進学のために上京して以来東京に住んでいる。実家は家族経営のうどん屋だ。今は引退している祖父には、左足がない。戦争で失ったらしいが、家族には何も語らない。みのりの甥・陸はある時から学校に行かず、祖父の家で手伝いをしている。登校しなくなった理由を誰にも言おうとしない。そしてみのりは、大きな後悔と喪失を経験している。そのことが原因で、今勤めている菓子店でも責任を負うような仕事から逃げている。何が起こったのかを、実家の人々に話すつもりはない。

 みのりと陸は「涼香」という人物からの手紙が、長年にわたり多数祖父宛に届いていることに気がつく。パラリンピックの高跳び選手であるその若い女性と祖父に、どんな繋がりがあるのか。戦争に夢を奪われた祖父が、家族に言わずにある行動をしていたことがわかっていく。このことがきっかけとなり、みのりは大学時代から続けていた海外ボランティア活動を通して起きた苦い事件と、陸は学校に行かなくなるきっかけとなった出来事と、向き合うことになる。

 家族というのは、身近な存在ではあるが、お互いのことを案外知らないものだ。何に喜び、苦しんできたのか、知らないまま人生が終わっていく。特に戦争経験については、辛い思い出だからと詳しく聞かずにいることが多いのではないだろうか。小説の中では、みのりや陸には直接語られることのない祖父の戦中から戦後の体験や感情が、生々しく描かれている。読みながら、祖父母たちが断片的に見せてくれたり語ってくれた記憶を思い出さずにいられなかった。登場人物たちの思いに、時代の移り変わりや私自身の過去と現在が交差していく。語ることのない感情や経験がいくつも積み上げられた過去があり、その先に私たちが生きる今がある。そして現在起きている出来事、やろうとしていることの先にも、さまざまな人の未来が広がっている。こういう小説に、私は出会いたかったのだと思う。

 蝉谷めぐ実『おんなの女房』(KADOKAWA)は、歌舞伎役者の妻となった武家の娘の物語だ。デビュー作『化け物心中』(KADOKAWA)で注目された新人作家だが、二作目も鮮やかに期待を飛び越えてきた。

 志乃は、父の命令で人気急上昇中の若手女形・喜多村燕弥に嫁いできた。歌舞伎のことは何も知らない。夫は役を引きずったまま帰宅し、家の中でも女として振る舞う。自分を妻にした理由もわからず、芝居小屋にいくことも許されず、身の置き所に迷う日々だ。あることがきっかけで、自分が妻に望まれた理由を知り、志乃は少しずつ夫に心を寄せていく。やがて、燕弥の振る舞いにも変化が表れ......。

 久々の胸キュン、きたっ! シリーズ化してもっとキュンキュンさせてほしい......などと思ってしまったことを反省したい。甘ったるい期待は、後半で見事に覆された。志乃は、一人の意思ある女性として、物語を大きく動かすのだ。直接の芝居の場面はほとんど描かれないのに、周辺人物の語りによって歌舞伎の魅力を伝える著者の力量も素晴らしい。人々の思いが雨のように降ってくる衝撃のラストまで、一気に読んでいただきたい。

 金原ひとみ『ミーツ・ザ・ワールド』(集英社)は、腐女子の成長物語と言っていいのか。主人公の由嘉里は、擬人化焼肉漫画「ミート・イズ・マイン」のイケメンキャラクター「トモサン」をこよなく尊ぶ(二次元の推し活に熱中している)銀行員だ。仲間たちがリアルな結婚や恋愛に流れていくことに、不安を覚えて婚活を始めた。合コンがうまくいかず歌舞伎町で泥酔しているところを、美しいキャバクラ嬢・ライに救われ、悩みと僻みをぶちまける。そんな由嘉里に、彼女は「私はこの世界から消えなきゃいけない」と言う。ライに生きてほしいと願う由嘉里は、彼女と同居し、周囲の人々と対話を重ね、その心に近づこうとする。それは、自身が生きる意味に向き合っていく時間でもあった。

 リアルな恋愛ができない腐女子、この世から消えたいキャバ嬢、自分の妻から貢がれているホスト、人が死ぬ作品ばかり書いている小説家......。それぞれの恋愛観と人生観が、新鮮な言語感覚で語られる。異種格闘技のような会話が刺激的だ。何度も笑い、何度も痛いところをグサグサと突かれた。付箋を用意して読みたい一冊である。

 朝比奈秋『私の盲端』(朝日新聞出版)の主人公は、大腸癌により人工肛門を持つオストメイトとなった大学生だ。友人にもバイト先にもそのことを隠しており、同じ状況にある女性たちのグループチャットで悩みを打ち明けあっている。ある日、バリアフリートイレの前で、オストメイトだという男性から声をかけられる。

 人工肛門の仕組みをなんとなく知ってはいたが、排出や洗浄の苦労や悩みについて、詳しく考えたことも知ろうとしたこともなかった。身体の状態と感情の変化が、五感の全てを使って濁すことなく克明に描写され、自分の中にも確かに内臓が詰まっているのだということを意識せずにはいられなくなった。現役の医師であるという著者にしか描けないテーマが、まだまだあるのではないか。今後の活躍が楽しみな新人作家である。

(本の雑誌 2022年4月号)

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●書評担当者● 高頭佐和子

神奈川県生まれ。都内在勤書店員。文芸書担当。

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