セクハラ被害をリアルに描く井上荒野『生皮』

文=高頭佐和子

  • 生皮 あるセクシャルハラスメントの光景
  • 『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』
    井上荒野
    朝日新聞出版
    1,254円(税込)
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  • 夏が破れる
  • 『夏が破れる』
    新庄 耕
    小学館
    1,650円(税込)
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  • 人でなしの櫻
  • 『人でなしの櫻』
    遠田 潤子
    講談社
    1,259円(税込)
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  • 喜べ、幸いなる魂よ
  • 『喜べ、幸いなる魂よ』
    佐藤 亜紀
    KADOKAWA
    2,090円(税込)
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 井上荒野『生皮』(朝日新聞出版)は、セクシャルハラスメントをめぐる小説である。どんな立場の人も、過去を振り返らずにはいられなくなるのではないか。忘れたい記憶、苦い後悔、封印した感情、見ないふりをした出来事......。覚悟をしつつも、フラットな気持ちで読んでいただきたい。

 動物病院に勤める咲歩は、小説家を目指して創作教室に通っていた。カリスマ講師・月島から目をかけられるようになるが、小説の指導という名目で呼び出され、当然のように肉体関係を迫られてしまう。教室を去り、結婚して平穏な日々を過ごしてきたが、七年経った今も過去に苦しんでいる。変わらず活躍する月島の様子を知った咲歩は、彼を週刊誌に告発する。

 まるで現実のニュースのようだ。こういう報道があると、被害者に共感する人がいる一方で、なぜすぐに告発しなかったのか、恋愛関係だったのだろう、などの声がSNSや報道の場で多く上がるが、この小説の中でも同じである。同意であったと主張する月島を、応援する者もいれば、違和感を覚えつつも見ぬふりをしたことを後悔する者もいる。教え子だった芥川賞作家が、自分も被害を受けたと月島本人との対談の場で訴えたことをきっかけに、関係者たちの感情はさらに動き、別の事件の告発も誘発されていく。

 被害者、加害者、傍観者、協力者......。それぞれに見える光景がずれていく様子を、著者は人々の記憶と心の動きを詳細に描くことで明らかにしていく。セクハラを受けた女性自身が、被害を受けていないと思おうとしたり、加害者の行為に加担してしまう心境は特にリアルだ。受けた傷は、時を経ても癒えることなく血を流し続け、痛みが続く限り過去にはならないのだ。現実の社会で声を上げる人々の傷が再生することを、私も願いたいと思う。

 新庄耕『夏が破れる』(小学館)にも、心に深い傷を負う主人公が登場する。執拗ないじめを受け不登校になった中学生・進は、母の勧めで沖縄に離島留学をする。滞在する施設はある夫婦が管理しているが、何かがおかしい。島の住民と交流することや、スマートフォンを使うことは禁止である。進の他には心が病んだ少女がいるが、一度も口を聞いていない。夫婦の関係に異常なムードを感じ始めた頃、得体のしれない男が施設を訪れ、吟味するように進の体を触る。翌朝、衝撃的なものを目にした進は、島を脱出しようと試みるが......。

 逃げてっ!と叫びたくなる緊張感と、ぞっとするような気持ちの悪さだ。欲望にまみれた大人たちが複雑に関わっていることに間違いないが、描かれるのは進の目に映る出来事のみである。それがかえって恐怖を煽り、最後には別の絶望も待ち構えている。序章には成人した進が登場するが、心の一部が壊れたままであることを想像させられてしまう。彼が苦しみから解放される日は、来るのだろうか?

 さらに陰鬱な衝撃に打ちのめされるのが、遠田潤子『人でなしの櫻』(講談社)である。危険な小説だ。読む前の自分に戻りたい。でも、きっとまた取り憑かれたようにページをめくってしまうのだろう。

 日本画家の清秀は、妊娠中の妻を失って以来、生きた人間を描けなくなっていた。高校時代に絶縁した天才料理人として名高い父・康則の秘書から呼び出され、あるマンションを訪れる。そこには後頭部を打って絶命した父と、若い娘がいた。その女性・蓮子は、十一年前に誘拐され、父に買われて監禁されていたという。自分がまだ八歳だと思い込み、康則を庇護者と思って慕っており、再会した実の親よりも、父の面影がある清秀に心を開くようになってしまう。父への怒りと憎しみを強くする一方で、その無垢な美しさに惹かれ、描きたいという欲望に囚われた清秀は、やってはいけない行動に出てしまうのである。

 とんだクソ父子である。此奴らの執着を愛と呼んではいけない。なのになぜ、清秀の描いた蓮子を見たいという気持ちが強烈に湧いてくるのか? 命を捨て罪人になってでも、先人の作品を超えたいと願う焦燥感に胸が締めつけられるのか? 愛されずに育ち、受け継いだ血から逃れられない運命が、悲しく胸に響くのか? 目を逸らすことができない自分が恐ろしい。

 佐藤亜紀『喜べ、幸いなる魂よ』(KADOKAWA)の舞台は十八世紀のフランドル地方である。ベギン会という聞いたことのない組織が物語の中心になっているのだが、読み終えた後も興味が尽きない。

 幼くして父親を亡くしたヤンは、亜麻糸商の家に引き取られ、ふたごの姉弟と共に育てられる。思春期になると姉のヤネケと秘密の時間を持つようになるが、ついに子ができてしまい......、と言うとよくある話のようだが、その後の展開は異色だ。ヤンがヤネケを愛しく思い、結婚したいと思っている一方で、並外れた探究心と明晰な頭脳を持つヤネケは、性に対する科学的好奇心から、実験でもするかのようにヤンを誘うのだ。子を産み人に預けた後は、修道会とは異なる半聖半俗の独身女性の組織・ベギン会に入ってしまう。子を引き取ったヤンは、ヤネケを妻にする日を待ち望んでいるが、彼女は女性の名ではできない研究の発表も弟の名を使って行い、地域の女子教育にも力を入れるようになっていく。弟が早すぎる死を遂げた後、ヤネケはヤンにある提案をする。

 さまざまな制約がある中で、多くの人のより良い暮らしのために自身の頭脳と知識を生かし、新しい発想を世に広げることに喜びを感じるヤネケの生き方と精神の自由は、今の時代に移してみても斬新で刺激的だ。ヤネケに翻弄され続けるヤンの気持ちに切なくなったり、予想外の道を選ぶ二人の息子の生きざまに驚愕しながら、一気に読んだ。

(本の雑誌 2022年6月号)

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●書評担当者● 高頭佐和子

神奈川県生まれ。都内在勤書店員。文芸書担当。

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