インドの町を生き生きと描く『ブート・バザールの少年探偵』
文=吉野仁
驚いた。まさかインド人作家による作品が本年度のエドガー賞最優秀長篇賞を受賞するとは思ってもみなかった。ディーパ・アーナパーラ『ブート・バザールの少年探偵』(坂本あおい訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)の主人公は、探偵ドラマが大好きな九歳の少年ジャイ。居留地と呼ばれる大都市近郊のスラム街に暮らしており、近くには地下鉄が走り、高級マンションが建ち並んでいる。ジャイは、とつぜん行方不明となったクラスメイトを友だちとともに捜索しようと、あちこちへ出向いていった。しかし、手がかりをつかめないまま、新たな子どもの失踪事件がつづく。
本作は、架空の場所を舞台にしているが、スラム街、バザール、地下鉄の駅などの雑多でにぎやかな様子が少年の目を通して生き生きと描かれており、読んでいるとインドの街中に放り込まれたような感覚に包まれる。彩り豊かな風景が広がり、町の匂いが感じられるのだ。また被害者となった子どもたちが語る章が挿入されており、そこにいくつもの家族と人生が映し出され、インド社会の複雑で悲惨な状況が見てとれる。ジャイが名探偵たらんと行動する、わくわくした愉しさに満ちている一方、やりきれない現実の厳しさや哀しさが漂っており、なるほど本作が受賞したのも当然だ。
ステフ・チャ『復讐の家』(宮内もと子訳/集英社文庫)は、よりストレートに社会問題を描き出している。黒人ショーンは、若いころギャングだったが、足を洗っていまは運送会社で働き、仮釈放となったいとこのレイおよび彼の家族らと幸せな時間をすごしていた。また韓国系アメリカ人のグレイスは両親の経営する薬局で働いていた。黒人少年が警官に射殺されるという事件が起こり、市内が騒然としていたとき、グレイスの母が覆面した何者かに銃撃され病院に運ばれた。それは二十八年前の悲劇とつながっていた。昨年刊のアンジー・キム『ミラクル・クリーク』につづく韓国系アメリカ人家族をめぐるミステリだが、こちらはロサンゼルスにおける黒人と韓国系の対立、復讐の連鎖、加害者の謝罪といったテーマを背景に、それぞれの家族の苦悩を描いており、まさに現代の最前線を浮き彫りにした一作である。
あいかわらず、主人公の個性を打ち出した警察ミステリの人気は高い。まずベン・クリード『血の葬送曲』(村山美雪訳/角川文庫)は、一九五一年のレニングラードで雪の降る日がつづくなか、線路に並んだ五つの猟奇殺人死体が発見されるという歴史警察小説。音楽にまつわる謎がいくつも絡んでおり、いささか強引すぎると思うほど派手でケレン味の強い物語だ。一九五一年のソ連という設定が小説の重要な背景であるのはもちろんのこと、主人公のロッセル警部補の存在が強烈で、先を読ませる原動力となっている。なにしろレニングラード音楽院を出た元ヴァイオリニストなのだ。ところが、身に降りかかった悲劇のため音楽の道をあきらめ、人民警察の警官となった。この男のたどる劇的な物語に惹きつけられる読者は多いことだろう。
ケレン味ならこちらも負けていない。カルメン・モラ『花嫁殺し』(宮﨑真紀訳/ハーパーBOOKS)は、スペインのマドリードが舞台で、主人公は女警部エレナ。題名どおり殺されたのは花嫁ながら、頭にあけられた穴から蛆を埋められ、生きながら脳が蛆に食われるという異常な殺人方法だった。じつは被害者の姉も七年前に同様の手口で殺されており、犯人は服役中だという。はたして別の模倣犯なのか。捜査するのは特殊捜査班という架空の組織だが、それぞれに一流の腕をもったメンバーが集まり、そこへエレナ警部の部下として所轄の刑事サラテが加わるなど、警察捜査小説としての展開も複雑かつ本格的である。これは三部作の第一作で、エレナ自身の抱える問題にまつわる衝撃的なラストが用意されており、次作を読みたくなること必至だ。
もう一作、スウェーデンのベテラン作家ホーカン・ネッセルによる『殺人者の手記』(久山葉子訳/創元推理文庫)は、バルバロッティ警部補が活躍する警察小説だ。バルバロッティが休暇の旅行へ出かける直前、手紙が届いていた。「エリック・ベリマンの命を奪うつもりだ。お前に止められるかな?」。やがて文面のとおり、その名前の男が遺体で発見された。その後も彼のもとに、新たな予告殺人の手紙が届く。主人公は、別れた妻とのあいだに三人の子どもがいる四十七歳で、捜査よりもバカンスを優先させ、事件解決も神頼みというダメな中年男だ。それだけに彼の家族や恋人らにまつわるサブストーリーがなかなか面白い。いやもちろん本筋となる事件の展開も奇妙なもので、主人公同様、どこまでも翻弄されながらページをめくっていった。
今月もっとも賛否両論となることが予想されるのは、アレックス・パヴェージ『第八の探偵』(鈴木恵訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)だ。作家グラント・マカリスターが一九四〇年代のはじめに発表した『ホワイトの殺人事件集』の収録作が順番に語られていく。フーダニット、不可能犯罪、そして誰もいなくなった孤島の事件など、バラエティに富んだ七つの作中作が並ぶだけではなく、何重もの企みが仕掛けられている。あいだに挟まる偶数章では、作家と女性編集者のふたりが、犯人探しミステリとして成立するために最低必要な容疑者は何人かといった議論や作品それぞれが含む問題点の指摘がなされるのだ。わたしは、伏線を置かず意外性やツイストのためにこしらえたような面が気になったが、いわゆる黄金時代の探偵小説や日本の新本格派に関心があれば、まずはお読みあれ。
(本の雑誌 2021年7月号掲載)
- ●書評担当者● 吉野仁
1958年東京生まれ。書評家。おもにミステリを中心とした小説や本の書評、文庫解説などを執筆。
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