第173回直木賞選評を読んで徹底対談。マライ「『逃亡者は北へ向かう』、惜しくも多数派形成に至らず!」杉江「東日本大震災の小説にこのタイミングで授賞してもらいたかった」

 選評を読むまでが芥川・直木賞。27年ぶりに両賞とも受賞作なしという波乱の結果に終わった第173回。ならば『オール讀物』に掲載される選評を精読して次回に備えなければ、ということで、9月8日に行われた対談の模様をお伝えいたします。「職業はドイツ人」マライ・メントラインと杉江松恋の〈チームM&M〉が受賞作なしの謎に勝手に迫ります。
芥川賞編はこちら

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■第173回直木賞候補作
逢坂冬馬『ブレイクショットの軌跡』(早川書房)2回目
青柳碧人『乱歩と千畝』(新潮社)初
芦沢央『嘘と隣人』(文藝春秋)2回目
塩田武士『踊りつかれて』(文藝春秋)初
夏木志朋『Nの逸脱』(ポプラ社)初
柚月裕子『逃亡者は北へ向かう』(新潮社)3回目
選考委員
浅田次郎、角田光代、京極夏彦、桐野夏生、辻村深月、林真理子、三浦しをん、宮部みゆき、米澤穂信

受賞作なし

目次
▼構造だけじゃ直木賞はやらんぞ、ということ?『ブレイクショットの軌跡』(逢坂冬馬)
▼「暗部をスキップ」は確かに重い『乱歩と千畝』(青柳碧人)
▼直木賞選考では不利になる好例『嘘と隣人』(芦沢央)
▼主人公絶対正義マンの問題『踊りつかれて』(塩田武士)
▼推しの作品が人によって全然違う『Nの逸脱』(夏木志朋)
▼苦悩に満ちた京極夏彦評『逃亡者は北へ向かう』(柚月裕子)
▼直木賞選評総括●受賞作なしとなったことで深まった議論

構造だけじゃ直木賞はやらんぞ、ということ?『ブレイクショットの軌跡』(逢坂冬馬)

マライ・メントライン(以下、マライ) 選評は全体的に「もう才能が充分なのは承知だから、もし、ここがもうちょっとああであれば!」的な講評が多かったです。でも、そのポイントが全方位的に割れているし、選考委員間での矛盾も目立ちました。作者としては「どうすればいいんじゃ!」と思うのでは。これだったらもっと痛い弱点を異口同音に突かれたほうが気が楽かもしれない。正直、同じようなアプローチでまた書くのが実は正解なんじゃないかという気がしなくもなかったり。でも終章の処理がちょっとな、というのは複数意見出てましたね。あれはどちらかといえば編集側の問題ではないかというのが我々の見解だったわけですが。あと、個人的に考えさせられたのは林真理子氏の「巧みな箇所と稚拙な箇所との差が目立つ。中央アフリカの戦地の描写は、リアリティと迫力にあふれているのに、タワマンに住むエリートの家庭などは実に陳腐だ」という評価。なるほどとは思うのだけど、あのタワマン族の描写は「タワマン族という存在自体のリアル陳腐さ」の絶妙表現としてヨシ! という解釈もありうるのではないか。でもそれは「陳腐さ」の見せ方としては技巧的にアウトなのか。うーむ……という感じです!

杉江松恋(以下、杉江) ラストの処理は分かれましたね。ミステリー的な伏線回収に徹することへの厳しい意見としても受け止めました。伏線回収がいくら上手くてもドラマが盛り上がるわけじゃない、という指摘だったようにも読めます。一つのブレイクショットによって引き起こされた事態に関係した人々の群像劇であるという点については基本的に高評価だったと思います。ただ、それが一つの価値観に収束していくことについて、つまらないという意見が多かったのではないでしょうか。

ブレイクショットの軌跡
『ブレイクショットの軌跡』
逢坂 冬馬 / 早川書房 / 2,310円(税込)
あらすじ
霧山冬至は、天才・宮苑秀直に誘われ新興ファンドの役員に就任した。まっすぐ前を見ていた人生に、つまずきが訪れる。SUV車ブレイクショットを通じて描かれる人生奇譚。
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マライ なるほど。そういわれてみると確かに。

杉江 「これほど多様な社会層を描きながら、小説が描き出そうとするうつくしさが、非常に限定された善的なものに感じられ」(角田光代)、「この小説は著者の哲学なくしては成り立たないものだからこそ、勧善の一歩先が見えて来なくては嘘だというもどかしさがある」(米澤穂信)。ラストに対して批判があるのは、最後の最後で月並みな価値観に着地したことに対する不満ではないかと思うんです。あそこで着地がもっと意外なところだったら、評価も違ったような気がします。

マライ 構造美的なものをどれだけ重視するかでそのあたりの評価も書き方も違ってくるでしょうね。興味深い。

杉江 これまでの逢坂作品ではいちばんよかったと私も思います。あれだけの群像小説を書ききった筋力は讃えつつ、作家として評価するには、形を作るだけじゃなくて、そこで何を見せるかが大事なんだぞ、と言われていたような。

マライ 私だったら「えーーーいろいろ見せてんじゃん!」とか言ってしまいそうだ!(笑)

杉江 構造だけじゃ直木賞はやらんぞ、ということですかね。価値観が一つに収束することへの不満は確かにその通りだと思ったので、そこにどう猥雑さとか多様性を盛り込むか、ということが今後の課題なのかと思いました。

 

「暗部をスキップ」は確かに重い『乱歩と千畝』(青柳碧人)

乱歩と千畝:RAMPOとSEMPO
『乱歩と千畝:RAMPOとSEMPO』
青柳 碧人 / 新潮社 / 2,420円(税込)
あらすじ
江戸川乱歩と杉原千畝は、愛知五中の同門だった。日本における推理小説文化の功労者となった乱歩と人道外交家として今も名を残す千畝、交錯しながら二つの人生が延びていく。
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マライ やはり「杉原千畝パートの平板さ」に対する指摘が厳しかったという印象ですね。しかし乱歩パートについても三浦しをん氏の「だんだん有名人顔見世興行のようになっていき」というツッコミは鋭い。素晴らしい。これは業界「内」的な読み方に対する警句かもしれない。

杉江 時代小説には山田風太郎の明治ものに代表される「実在の有名人が顔見世する」技巧があるのですが、そこだけでは評価せんぞと。これ、時代小説の楽しければなんでもあり、ではなくて、歴史小説の、実際の歴史に向かいあう姿勢を作品に求めたということだと思うんです。だから関東大震災と戦争をなぜ書かないのか、という批判も出て来る。

マライ ストーリー上の重点でないから視界の外においていいわけではない、という。

杉江 また、歴史的事実を都合よく編集することへの疑問表明もあったように思いました
「二人の人格/人生を形成するのに欠かせないだろう双方の葛藤や暗部を多くスキップしてしまう構成は、一部の読者にとって容認出来ないものとなるのではないか」(京極夏彦)、「人間性の最も深い部分を垣間見るようなここぞという場面で、物語が敬意と重みを欠くきらいがある」(米澤穂信)。そう考えるとこれ、「ぼくたちの好きな乱歩、ときどき千畝」小説なんですよね。乱歩の魅力を引き出すために、歴史をつまみ食いしていると。
マライ あーーーそれ言われると厳しいですね。

杉江 歴史修正主義、と言ってしまうと言葉はきついんですけど、指摘の内容はそういうことに近いかと。

マライ 近いですね。「暗部をスキップ」は確かに重い。

杉江 読んでいるときはそこまで気が付かなかったんで、選評で改めて考えた次第です。これだけ特攻隊美化とか、歴史修正主義のはびこる世情について問題視しているのに、小説が孕んでいる要素を見落としていたのは、自分でもいかんな、と思いました。

マライ これって「戦争に向かう社会におけるエンタメってどんなだったか」を考える契機でもありますね。ただ言い方がまた問題で、ありがちな絶対平和思想うるさ型の論者っぽく見えてしまうと損なので、そこは注意したいところです。

杉江 おもしろいんだけどとんとん話が進んでいっているのは、ちょっと薄味すぎる気もするし、エンタメとしてはこれでいいような気もするし、とぼんやり思っていたことに対して、それは大事なことが書かれていないからでは、という指摘が入ったということでいいと思うんです。小説は万能ではないから、これじゃいけないというわけじゃないんだけど、まだまだやれることがあるということを教えられたというか。

マライ まだまだ危険な余地もあるよという裏面もまたあり。

杉江 いずれにせよ、気を引き締めようと思わされる選評ではありました。

 

直木賞選考では不利になる好例『嘘と隣人』(芦沢央)

嘘と隣人
『嘘と隣人』
芦沢 央 / 文藝春秋 / 1,760円(税込)
あらすじ
元・刑事の平良正太郎は、孫が通う保育園の保護者がDV夫による暴行を受けたことを知る。事件の謎を解く鍵は正太郎が見聞した出来事にあった。新たな退職刑事ヒーロー登場。
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マライ 「よくできた佳品だけど、実験性と突破力にイマイチ欠ける」という所見になんとなく収斂する感じです。『ブレイクショットの軌跡』とは別の意味で、作者としてはどうすればいいんじゃ的な印象を受けました。うーむ難しい。

杉江 これ、ミステリーが直木賞選考では不利になる好例だと思うのです。「難点は、意外性を追求するあまり、無理をしているような印象があることだ」(桐野夏生)。ミステリーは意外性を追求するジャンルですからねえ。

マライ あーーー、か、悲しい。「ミステリの作法で許される」許容範囲の問題というか。

杉江 「この小説に登場する謎は、人の心の複雑さを越えて、あまりに入り組みすぎていて、説得力を欠いているようにも思う」(角田光代)。角田さんは基本的にミステリーとは無縁な書き手・読み手なので、心理のイレギュラーさが理解できなかったんだと思うんです。でもそれは角田さんが悪いというわけじゃなくて、ミステリー読者はお約束として受け入れていることは、外の世界ではそうではないという改めての指摘かもしれない。その昔には東野圭吾『容疑者Xの献身』が受賞したこともあり、ミステリー的な特殊が評価された例はあるわけなんですよ。でも、「人間が持つ普遍的な何かを深く照らしていくタイプの小説とは、別のところに眼目がある。そうした小説がほかとの比較で勝るには、圧倒的な面白さやクオリティで全てをなぎ倒すしかない」(米澤穂信)という、ミステリー作家である米澤さんの意見がすべてを表しているような気がします。

マライ うーむキラーワード「圧倒的な面白さ」。でも、まあ、実際に時々出現しますからね「圧倒的」って。

杉江 佐藤究『テスカトリポカ』とか。

マライ 米澤穂信『黒牢城』とか。

杉江 米澤さん自身が青春ミステリーという特殊の中の特殊から出発して現在の位置に来た人なんで、言う資格はありますよね。

マライ 資格を持つ人に言われてしまうとゲームオーバーでしかない‼ いい意味での「作りもの」のお約束感というのもあるのですが、それは狭義ミステリ領域の話なのか。

杉江 「その同じ色合いの動機をすべて別角度から違う事件に仕立てるのは決して容易にできることではないはずだ」(辻村深月)という、ミステリー技巧への評価もあるんですけどね。

主人公絶対正義マンの問題『踊りつかれて』(塩田武士)

踊りつかれて
『踊りつかれて』
塩田 武士 / 文藝春秋 / 2,420円(税込)
あらすじ
醜聞の主となった芸能人を匿名で叩く正義の人々。ネットに個人情報を流出させるという形で彼らを裁いた男が告訴された。担当弁護士の久代奏は彼の語らない過去に関心を持つ。
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マライ だいたい我々の所見に近いかなという印象です。作品冒頭の「SNS炎上文化への宣戦布告の凄味」にシビれて、これを軸にどんな展開が来るのかと期待したら、いつの間にか90年代芸能界っぽさ秘話と回顧に収斂してしまう展開でなんじゃこりゃ? という、うん、それはそうだろうという感想です。選評では言及されていないけど、二つのストーリーを敢えて融合させようとした経緯はそもそも何だったのか、という点が改めてちょっと気になりました。実は融合ではなく分裂だったのかもしれないけれど。

杉江 たしかに、だいたい思ったとおりの評価でしたね。少し違った視点で感心したのが「告発をした瀬尾を被害者たちに極めて近しい人物にしていることで、感情としての物語の側面が強くなり、問題を俯瞰して語る視点が薄れてしまったように感じられた」(辻村深月)。

マライ 主人公絶対正義マンの問題ですね。

杉江 これは確かに、と思いました。告発が私刑の要素を帯びたことで、最後は主人公を感情面で満足させてくればいい、という方向に行ってしまう。主人公を被害者と離すことでそれを回避できたかも、というのは思いつかなかったです。最初のSNSの告発も、無関係な第三者からのものだったら、そのまま失速しなかったのではないかと。

マライ 確かにそれは同感です。感情の煽りを超えて物語構造をとらえられるかという問題は重要ですね。

杉江 三浦さんが「SNS問題のほうのストーリーラインは、作者の主張がやや前面に出すぎではという気がした。(中略)登場人物の『声』がひとつしかないように感じられた」と書いていて、これも納得したんです。つまり登場人物の声が作者その人のものと受け止められかねないほど、作者と登場人物の距離が近い。

マライ 脳内SNSを作品に展開させちゃったともいえそう。そう考えると、小説としてSNSユーザー的な肌感覚を「超えてない」のはマズいといえるかもしれない。

杉江 あるあるすぎるともいえますね。

 

推しの作品が人によって全然違う『Nの逸脱』(夏木志朋)

Nの逸脱 (一般書)
『Nの逸脱 (一般書)』
夏木 志朋 / ポプラ社 / 1,760円(税込)
あらすじ
ペットショップで働く金本篤は突如大金が必要になった。来店した客のある行動に目をつけた篤は、その人物を恐喝しようと考えるのだが。日常からの些細な逸脱を描いた中篇集。
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マライ 杉江さんと私で評価が分かれたのを、意外なほどなぞる感じの見解の割れっぷりだったと思います。収録三作のバランスや流れの悪さが致命的に指摘される一方、それを踏まえてなお独特の魅力があると推すムーヴもあった。特に林真理子氏の「この本に流れている不気味さがあまりにも巧みで、これこそ現代だと思った」という表現は「そうそうそう、私が感じたのはまさにソレ!!!」と思わず膝を打ってしまいました!(笑)。

杉江 あそこは本当にマライさんと意見が同じでしたね。全般的に、文章のうまさを指摘する声が多かったと思います。「登場人物の心情が丁寧に描かれ、さりげなく『いま』を織りこみつつ、ユーモアもあって、とてもうまいと感じた。(中略)「ほっこり」とは程遠い展開を見せるところが最高だ」(三浦)、「著者の夏木さんの言葉選びのセンス、場面転換と文章の疾走感が素晴らしく」(辻村)「ただし作者はすぐれた観察眼を持ち、小説の運びもいいので、何かの拍子に傑作を書きそうな予感がした」(浅田)「何と言っても、その視線の力である。対象との距離感が心地よく、その距離が『意地悪』と言ってもよいような独創的で自在な視線を形作っている」(桐野)。

マライ 構成力ではなく言霊力の評価ですね。

杉江 桐野さんの評がもっともまとまっていると思うんですが、乱暴に要約すると、小説に必要な人間観察と独自の表現の選択ができている、ということだと思うんです。だから、何かの拍子に傑作を書きそう、と浅田さんも評価する。

マライ すごい伸びしろを感じますね。

杉江 おもしろいのは、三作の出来がばらばらと言いつつ、推しの作品が人によって全然違うことですね。

マライ そうそうそう、それがまたいいんです。あの評価の割れ方って、たとえば怪談で言えば「〈一番怖いのは人間〉系の話がいいか否か」的な方向性の違いを示していて、それはそれで今後、面白い洗練の余地があると思うのです。

杉江 出来不出来の差があると私も思ったんですけど、そうではなくて、書いたものをコントロールする技能がまだないということなのかと。この三作じゃなくて、たとえばもう一作加えて四作にしていたら、もっと点が高かったかもしれません。そしてここでも角田さんは、「この三つの物語を常緑町という町でひとくくりにし、連作ふうにしてしまったことでバランスの悪さがかえって魅力をそいでしまったように思う」と連作形式の作りもの感に疑問を呈している。これもお約束に対する駄目出しですね。もうひとつおもしろかったのは、宮部みゆきさんです。「今の段階で『エンタテインメント』という枠をかけてしまっていいものなのか、迷いを覚えました」。これ、言われてみればそうかも、と思いました。もしかすると夏木さん、石田夏穂さんみたいに芥川賞向きの作品も書けるのかもしれない。高瀬隼子さんみたいな作品を。

マライ そんな気はします。

杉江 エンタメの技法に留まらず、可能性を追究してもらいたいと思うんですよね。河出書房新社あたりが声をかけて『文藝』とかで書いてもらったら、また別の魅力が発揮できるんじゃないかなあ。あ、別に引き抜きを示唆しているわけじゃないですよ(笑)。

マライ 今回の候補作の中で一番の「異物感」があったので、それは才能のオリジナリティの反映なのかもと思ったりしました。

杉江 まだ二冊目だから、可塑性が高いんだと思います。今の時点で選考に挙げた予選委員は、目のつけどころがよかったのかも。でも、今回の評価はあまり気にせずに、まだまだ創作の可能性を拡げてもらいたいですね。

 

苦悩に満ちた京極夏彦評『逃亡者は北へ向かう』(柚月裕子)

逃亡者は北へ向かう
『逃亡者は北へ向かう』
柚月 裕子 / 新潮社 / 2,090円(税込)
あらすじ
暴行事件を起こして逮捕された真柴亮は、東日本大震災が起きたため自由の身となり逃亡を始める。刑事の陣内康介は、震災後に発覚した殺人事件の犯人は亮だと睨み、追跡を始めた。
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マライ 各選評から評価ヴィジョンのまとめ像がもっとも浮かびにくかった作品です。評価が割れているという面は『ブレイクショットの軌跡』と同じなのだけど、なんとも絶妙な言いにくさのようなものを感じます。その中で米澤穂信氏の「運命に介入してくる偶然の多さ」という言葉が印象に残りました。うーむそういうのはNGなのか。厳しいな。

杉江 偶然の多さについては、確かにその通りだと思います。「たまたまそうなった」の連続ではある。たぶん、そこがマイナス評価につながったと思います。たまたま傷害事件を起こしたい人間が震災の夜にたまたま人を殺してしまって、みたいな連続ではあるので、ミステリー読みの中にもそれを指摘する人はいるんですよ。
マライ 「たまたま」の悪目立ちですか、なるほど。でもゴーゴリの「外套」のような、宇宙の理不尽なルール性を前提とした運命小説として読めばいけますよ。

杉江 選評を見ると、どうやら三浦しをんさんが、そういう視点で論陣を張ってくださったようですね。「では、圧倒的な運命のまえに、ひとはただ無力なのか。(中略)ギリシャ悲劇以来、人類が延々と考えつづけてきた『運命と人間の意志』という命題に、正面から取り組んだ傑作だと思う」(三浦)。

マライ なぜそれが通らなかったのか。かなり考えさせられる。

杉江 「私は当初、殺人犯となって逃げる真柴の不幸の描き方に疑問があった」とおっしゃっていた辻村さんが、三浦さんの意見を聞いて、「誰のもとにも、どんなタイミングでも訪れる死というものの残酷さと、その主題を東日本大震災の物語の中で扱った柚月さんの、作家としての小説・主題への対峙の仕方、まなざしの深さを心から尊敬する」(辻村)と認識を改められたと書いておられます。運命の小説という観点からの評価がもっと支持されていればよかったのですが。

マライ 惜しくも多数派形成に至らず!

杉江 最初に点が入らなくて、それでずるずるっと落ちてしまったようです。

マライ うわーーーー悔しい!悔しすぎる! でもここで「我が代表堂々退場す!」とか言ってはいけない(笑)。

杉江 直木賞脱退!(笑)ここでもやはりジャンル小説のお約束に対する疑義が呈されたようです。「亮がなぜ直人に執着するのかが最後までわからず、また直人もなぜ亮にだけ心を開いたのかがわからず、もどかしい思いが残った」(角田)。

マライ わざわざ犯人を崖の上に呼び出して問い詰めて逆襲されてピンチに陥る、みたいなあからさまな不自然さを潰しただけではダメか。やはり「ちょっとした不自然感」を突かれると厳しくなるんですね。

杉江 この小説は変型のロード・ノヴェルで、追う者と追われる者が一緒に行動はしていないけど、鎖でつながれたように同じ軌道を描く。でも角田さんは、なぜこの二人は通じているのか、という根本の部分でおかしいと言われているわけです。

マライ 運命のコインの表裏だからだよ!では済まないんですね。

杉江 こういう作りものめいたお約束に対する批判が一つ。それとミステリー作家である米澤さんの「偶然に頼りすぎ」という意見もあって、ジャンルの外と内から批判が出たんでしょうね。「(キャラクターの)設定も震災のメタファー/被災のヴァリエーションとして秀逸な設計だろう。震災直後という舞台設定も物語の進行に有機的に関わる形で機能しており、今の時代に読まれるべき作品としてチューニングもなされている」という京極夏彦さんの意見は、小説全体を東日本大震災のモデルと見なすという意見でしょう。「未曾有の自然災害で日常が破壊されてしまったなかで展開する捜査小説。このテーマを選び、書き切るには大変な勇気と覚悟が必要だったと思います」という宮部みゆきさんの意見には完全に同意です。

マライ そういえば、京極さんの文章は全体的に一番苦悩に満ちてましたね。「受賞作なし」の件についても、読み切れなかったからこうなってしまいスマン、みたいな書き方していたし。

杉江 そうそう。柚月さんが京極さんの選評で触れる順番では最後ということもあったんですが、『逃亡者は北へ向かう』を推したのだが力及ばず、と書かれているかのように読めてしまう。やはり東日本大震災の小説にこのタイミングで授賞してもらいたかったです。

マライ その通りだと思います!!!! 今回の一番の不完全燃焼ポイントですよ。

杉江 本当にそうです。もしかすると小説で社会に訴えかける、最初で最後の機会だったかもしれない。過去を振り返ることは、社会の犠牲になっている人への思いを馳せることにもつながったと思います。今いちばん必要なことができたのになあ。

直木賞選評総括●受賞作なしとなったことで深まった議論

マライ 今回の選評で印象的なのは、各作品の良し悪しが、選考委員をまたいで相互補完的に語られている感じで「それゆえに」どれも授賞に至らなかったという流れと構造が窺える点で、芥川賞の「授賞作なし」選評たちと対照するといろいろ興味深いです。あと『オール讀物』誌上での追加特別企画では、林真理子氏と浅田次郎氏の対談が良かったです。「なんで直木賞は【購買指標】としてこんなに権威化してしまったのだろう?」という戸惑いも含め、「中の人」の視野に見える世界のインプレとして非常に興味深い。選考委員の皆様、芥川賞でも直木賞でも「該当作なし」が頻発していた(そして自らが候補だった)時期のことを、なにやら就職氷河期みたく呪っている感じなのが印象深いです。

杉江 あれ、おもしろかったですね。あと、桐野夏生さんが選評でご自分の受賞作なし回のことを書いておられたのも、そりゃ書くだろう、と思いました。何度も言っているように、直木賞って確固とした基準がないので、毎回それを巡って定義づけに近い水面下の攻防があると思うんですが、受賞作なしとなったことで、今回はそのへんの議論が深まったような印象があります。よくわからないなりに、こういうのは駄目なんだ、とわかるという。

マライ 確かにいろいろな構造性を考えさせてくれるきっかけにはなりましたね。

杉江 はい、こういうときこそ選評を読むことの大切さを感じさせられます。予想と分析のうち、分析の占める割合が多い回になりました。

 

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書評家・杉江松恋と、日本文学・アニメを愛する〈職業はドイツ人〉ことマライ・メントラインによる文芸対談、「WEB本の雑誌」好評連載を加筆修正、さらに芥川賞、直木賞を考察する語り下ろし対談も!

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先に『芥川賞候補作全部読んで予想・分析してみました 第163回〜172回』(杉江松恋、マライ・メントライン/本の雑誌社)10月25日発売予定。

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