『雌犬』ピラール・キンタナ

●今回の書評担当者●ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美

 一冊の本がここにある。

 束、文字の大きさ、行間など、目で見て読むのにどれくらいかかりそうかざっと見積もることはできる。しかし、内容は読んでみないと判らない。平庸で読みやすいと読んでいたら、小説の世界の豊かさや、文字には書いていないのにあれこれ想像で補足した情報の多さ、読み終わった後の余韻にびっくりすることがある。それを人に伝えようとあらすじを語って、自分が味わった面白さや驚きが全く表現できないとき、物語の面白さは筋だけではないのだと気が付く。

 今回紹介する『雌犬』ピラール・キンタナ著(国書刊行会)はそんな一冊だ。

 主人公のダマリスは夫と二人で、裕福な白人の別荘を管理しながらそこに住んでいる。持ち主が別荘を訪れることはなく、管理費も滞りがちだ。食うに困らぬものの生活に余裕はなく、お金が手に入るまでつけで買い物をすることは日常茶飯だ。つけで買い物をさせてくれる行きつけの店を持ち、それなりに毎日を過ごしているがダマリスは孤独だ。別荘の持ち主の一人息子のニコラシートとダマリスは幼馴染だが、二人で海に出かけ、無茶をしたニコラシートは波のまれてしまう。大人たちは、自責の念に駆られるダマリスに事故の責任を負わせ、かばわなかった。この事件をきっかけにダマリスの少女時代は終わり、同時期にダマリスの家は没落していく。そんな事情を知る村にダマリスは留まり、他所からきた黒人のロヘリオと夫婦になる。夫婦がすれ違うきっかけは不妊治療である。子供を望むダマリスを思いやり、協力的だった関係は、治療が長引くにつれすれ違い、仲は冷え切ってロヘリオは怒りっぽく暴力的な夫になってしまった。

 小説では、ダマリスの心情が直接文章にして語られることはない。かわりにダマリスの行動や周囲の反応が綴られる。ダマリスは容姿に恵まれない平凡な女だと書かれているが、これはダマリスの眼を通した自分の姿で、ダマリスは自己評価が低い。

 幼馴染の事故以来、出来事に逆らわず人に多くを望まず淡々と日々を過ごすダマリスだが、時折はさまれる夫の思いやりや夫婦の情が通う瞬間を見ると、ダマリスは他人に付け入る隙を与えず自分から殻を作っているように見える。

 それが、雌の子犬を引き取ったことで変わっていく。望んでも持つことが叶わなかった子供のように雌犬を溺愛し夢中になるダマリスの傍を犬も片時も離れない。夫もそんな犬との関係を見守っているが、雌犬が成犬となり気ままに行動して、孕むようになるとダマリスの気持ちに変化が生まれる。

 終盤ダマリスがとった行動は、愛情と裏返しの支配欲や嫉妬など、自分にも身に覚えのある感情が想像できて、それらに突き動かされた行動のままならなさや愚かさを他人事でなく感じる。直接は書かれていないのに、想像される人の機微が豊かなおすすめの一冊だ。

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ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美
ジュンク堂書店池袋本店 小海裕美
東京生まれ。2001年ジュンク堂書店に入社。自分は読書好きだと思っていたが、上司に読書の手引きをして貰い、読んでない本の多さに愕然とする。以来読書傾向でも自分探し中。この夏文芸書から理工書担当へ異動し、更に「本」の多種多様さを実感する日々。