【今週はこれを読め! ミステリー編】意地っ張り警部のナチス前夜『死者の声なき声』

文=杉江松恋

  • 死者の声なき声 上 (創元推理文庫)
  • 『死者の声なき声 上 (創元推理文庫)』
    フォルカー・クッチャー,酒寄 進一
    東京創元社
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 世界最初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」がアメリカで公開されたのは1927年のこと。その1年後には同作がヨーロッパにも上陸し、旧大陸でもサイレントからトーキーへの歴史的な転換が始まる。ハリウッドとウィーンの両都を舞台にした、皆川博子『双頭のバビロン』(東京創元社)はそのトーキー前夜の時代を描いた傑作であったが、同作と併せ読むべき作品が出た。
 フォルカー・クッチャー『死者の声なき声』である。

 物語は1930年2月28日に始まる。ベルリン警視庁殺人課に奉職するゲレオン・ラート警部は、上司の上級警部ヴィルヘルム・ベーム(通称ブルドッグ)から電話で指示を受けた。映画撮影所のテラ・スタジオで死亡事故があったのだという。現場に急行したラートは、その痛ましい出来事の全貌を知ることになる。撮影中に吊るされていた投光器が落下し、ベティ・ヴィンターという女優がその下敷きになった。高熱の投光器に妻が焼かれることに動転した夫、男優のヴィクトル・マイスナーが彼女の体に水をかけたため、ヴィンターは感電死してしまったのである。
 ラートの鋭い観察眼は、投光器を固定していたボルトに異変があることを見逃さなかった。現場からはスタッフの1人が消え失せている。ラートはこれが単なる事故ではなく、何者かによって仕組まれた事件であると看破して捜査を開始した。

 しかし、彼が解決しなければならない案件は一つではない。ケルン警察で警視長の地位にある父エンゲルベルトからは内々で頼み事をされた。ケルン市長コンラート・アデナウアーが政治生命を断たれないスキャンダルをネタに恐喝を受けた。恐喝者がベルリン市内にいると信ずる根拠があるので、見つけ出して片を付けてもらいたいというのだ。うまくそれを処理すれば、念願の上級警部への昇進が見えてくる。ラートは欲得ずくでそれを引き受けた。また、旧知の映画会社社長マンフレート・オッペンベルグからは、彼の愛人でもある女優ヴィヴィアン・フランクの行方を捜してほしいとの依頼があった。フランクが主演する映画のクランクインが迫っているのだ。公式の事件と私的な依頼と、三つの案件を抱えながら、ラートはベルリンの街を歩き始める。
 
 複数の事件を同時に小説内で走らせていくタイプのプロットをモジュラー形式というが、その典型のような物語だ。本書の特徴はなんといっても物語の舞台を1930年のベルリンにしたことで、トーキー勃興期の映画撮影所が華やかな光輝とともに描かれていく。また物語の始まりが謝肉祭前の時期になっており、祭事の前の浮き足だった空気が小説に躁的な表情を与えている。

 前作『濡れた魚』(創元推理文庫)は、1929年のやはりベルリンにおける物語であり、フォルカー・クッチャーはゲレオン・ラートという狂言回しを立てて、1年1作のペースで進行する年代記を書こうとしている。『濡れた魚』の訳者・酒寄進一のあとがきによれば、その終点は1936 年、ナチスがドイツの警察権を掌握した年に設定されているという。それまでのドイツ国内では、地方分権が成立しており、各地に独立した警察が存在した。それがナチスによって一本化される年が1936年なのである。本書のラートは独断専行で動こうとして上司のブルドッグとことごとく対立する。なにしろラートは協調性皆無の男なのだ。作者が主人公をそうした独立不羈の人間にしたのは、言うまでもなくその先にナチスによる一党支配の成立を見据えているからだろう。じわじわと迫りくる全体主義国家の影に対し、主人公がいかに抗うかというのがこのシリーズの重要な柱にもなっている。

 したがって作中にはナチス前夜のドイツの文化風俗が山のように織り込まれているのだが、そうした知識が皆無であっても読むのにはまったく支障がない(これは訳者の手柄である)。意地っ張り男が圧力に負けずに我を張り通す小説として、じゅうぶんにおもしろく読めるのだ。もちろんこれで関心を持ったら、ドイツ近代史について調べてみるとさらに興趣は高まるはずである。

 ちなみに1936年はナチスが国家の威信をかけて成功させたベルリン・オリンピックの年でもある。作中の時間はそこまであと6年。東京にも7年後にはオリンピックがやってくるはずだが、このシリーズを読み続けていると、作中の状況と現実との間になんらかの符合が見えてくるかもしれない。ゲレオン・ラートは俺だ私だ、と思う読者はこれから増えてくるんじゃないのかな。
 
 明日28日、東京ドイツ文化センターでは本書がらみのイベントが開催されます。ゲストは本書の翻訳者でもある酒寄進一氏とNHKドイツ語講座でおなじみのマライ・メントライン氏。本書の理解の助けとなる楽しい情報やお話が聞けるはずなので(当時の無声映画も上映されます)、関心のある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。
詳しくは→http://www.goethe.de/ins/jp/tok/ver/ja11369180v.htm

(杉江松恋)

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