マット・スカダーが探偵人生を語るシリーズ最終作
文=小山正
今月から海外ミステリ評を担当します。よろしくお願いします。最初にご紹介するのは、ローレンス・ブロックの新作『マット・スカダー わが探偵人生』(田口俊樹訳/二見書房)。五十年近く続いた私立探偵シリーズの締めくくりが、自伝とはビックリだ。従来の事件物ではなく、八十四歳の老探偵が現在の心境と過去の記憶を朴訥と語る。とはいえ、スカダーが若き日に関わった事件が断片的に描かれるので、広義の犯罪文学といえよう。
若くして死んだ酒好きの父と愛煙家の母の思い出。スカダーの酒との出会いは八歳か九歳、ウィスキーのソーダ割りだったという。学生時代はラテン語と詩を好み、キケロや『ガリア戦記』を愛読した。
警察官時代のエピソードも多い。人間観察力を養ったこと。名刺印刷の秘話といった小ネタ。スカダーが少女を誤射した悲劇も描かれる。そうした回想の合間に、現在ニューヨークで暮らすスカダーの生活・食事・健康・友人との交流が綴られてゆく。愛妻エレインとの対話は、美しい詩のようだ。
語りのスタイルもユニーク。スカダーの一人称で、わずか一行、多くても十行前後の短文が塊となって、心情が綴られる。一見メモ風だが、ニーチェのアフォリズムのようだ。田口俊樹の訳文も流麗を極め、見事。
スカダーの探偵譚はどれも、人間の死に方を洞察する文学だった。この自伝も例外ではなく、死の影に覆われている。にもかかわらず、読後が爽やかなのは、スカダーの人生に悔いがないからだろう。彼の「死にざま」ならぬ「生きざま」に触れることで、読者も自らの「死にざま」に想いを馳せることができるはずだ。
ジェイク・ラマーの長篇『ヴァイパーズ・ドリーム』(加賀山卓朗訳/扶桑社ミステリー)もニューヨークが舞台。時は一九三〇年代から六〇年代。ハーレムのジャズ世界を背景に、黒人たちの犯罪と麻薬の日々を描くクライムノベルだ。
〈ヴァイパー(毒蛇)〉と呼ばれる黒人クライド・モートンは、ジャズのトランペッターに憧れるが挫折。麻薬の世界に飛び込み、成功を収めた。生ける伝説としてハーレムに君臨する彼は、ボスや仲間の裏切りに対峙し、三つの殺人に関与する。
現在と過去を交錯させ、殺人の真相を描くのがメインストーリー。映画『パルプ・フィクション』(一九九四)のように時系列が入り乱れる展開はポピュラーで、目新しくはない。しかしそこに、実在するレジェンドたち──チャーリー・パーカーやマイルス・デイビス、セロニアス・モンク等々──が登場し、虚実が溶け合う面白さが加わる。とはいえジャズには、何人ものアーティストが麻薬に溺れ、破滅していった暗黒史がある。そうした闇を容赦なく曝き出すのも、この小説の読みどころだ。
ジャズと麻薬の暗黒世界に生きながら、確固たるモラルコードを持つクライドのキャラクターも鮮烈である。物語の冒頭で彼は、「あなたにとって、三つの願いとは何か?」と問われ、その答えをラストで明かす。そこに記されたクライドの想いは──ネタばらしになるので詳細は伏すけれど──くしくもスカダーの人生哲学とは正反対。二人の「生きざま」の違いを比べるのも一興だろう。
さて、ベテラン作家ジョン・グリシャムともなると、悪の組織は複雑を極める。最新作『告発者』(白石朗訳/新潮文庫)に登場するのは、街のカジノ産業と司法を裏で操る経済マフィアだ。
裁判官の不正調査、告発を業務とするフロリダ州〈司法審査会〉に、金銭を通じてマフィアと通じた悪徳判事がいる旨の連絡が届く。その判事は、先住民タッパコーラ族が運営するカジノから売り上げを掠めるマフィアから裏金を貰い、悪人たちに都合の良い判決を出し続けているというのだ。女性調査員レイシーと同僚で黒人のヒューゴー、ボスのガイスマーは裏を取り始めるが、調査はやがて巨大な壁にぶち当たる。
犯罪組織は巧妙に隠れており、尻尾を掴むのは容易ではない。予算も少なく、小さなオフィスに勤める事務方のレイシーと仲間たちが、難攻不落の組織をいかに攻略するかが、本書の読みどころだ。
著者十八番のリーガル・サスペンスだが、ナンだ、またか! というなかれ。ストーリーテリングはもちろん、キャラクター造形、サスペンスの技法、ミステリの作劇はもはや職人芸の域。娯楽小説の王道である。
未知の作家ダニエル・トゥルッソーニの『ゴッド・パズル─神の暗号─』(廣瀬麻微・武居ちひろ訳/早川書房)は、私好みの怪作だ。
フットボール選手マイク・ブリンクは試合中に頭部を強打。認知能力が変わり、「獲得性サヴァン症候群」と医学的に診断され、特異な脳力を持つパズル作家として活躍する。そんなある日、彼は矯正施設の心理士の依頼を受け、殺人犯として収監される若き女性受刑者ジェス・プライスに会う。以降、奇怪な事件が次々に起きた──。
ボーイ・ミーツ・ガール風に始まったと思いきや、舞台が百年前の古城にジャンプしたり(しかもゴシック・ロマンス風!)、謎の暗号文が登場したり、中国の古典『易経』が言及されたりと、目くるめく展開となる。その一方で、アメリカの女性作家ジョーン・ディディオンへの言及があったりして、なかなか趣味がいい。オカルト探偵物のファンには既視感のある題材かもしれないが、西洋と東洋に共通する根源の思想とは何か? という壮大なテーマを、知的エンタメとして構築しようという意気込みがすばらしい。珍ミステリが好きの方にオススメです。
(本の雑誌 2025年1月号)
- ●書評担当者● 小山正
1963年、東京都生まれ。ミステリ・映画・音楽に関するエッセイ・コラムを執筆。
著書に『ミステリ映画の大海の中で』 (アルファベータブックス)、編著に『バカミスの世界』(美術出版社)、『越境する本格ミステリ』(扶桑社)など。- 小山正 記事一覧 »