第174回直木賞選評を読んで徹底対談。マライ「まったりとしてそれでいてしつこくない『カフェーの帰り道』は『美味しんぼ』か?」杉江「令和の向田邦子と評したのは間違っていないかも」
選評を読むまでが芥川・直木賞。『オール讀物』に掲載される選評を読んで〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&M(『直木賞候補作全部読んで予想・分析してみました』〈第163回〜172回〉発売中)があれこれ考える対談がやってまいりました。3月25日に行われた対談の模様をお伝えいたします。第174回直木賞選評を読み解きますよ。芥川賞編はコチラ。
■第174回直木三十五賞候補作
嶋津輝『カフェーの帰り道』(東京創元社)2回目→受賞
住田祐『白鷺立つ』(文藝春秋)初
大門剛明『神都の証人』(講談社)初
葉真中顕『家族』(文藝春秋)初
渡辺優『女王様の電話番』(集英社)初
選考委員/浅田次郎・角田光代・京極夏彦・桐野夏生・辻村深月・林真理子・三浦しをん・宮部みゆき・米澤穂信
- 目次
- ▼嶋津輝『カフェーの帰り道』そうか、身体性と心情が結びつく作家なのか
- ▼住田祐『白鷺立つ』「スポーツ小説みたい」という指摘多数
- ▼大門剛明『神都の証人』ジャンルの下駄をはかせてくれない選考
- ▼葉真中顕『家族』現実の事件からあまり踏み出してないという指摘
- ▼渡辺優『女王様の電話番』浅田次郎氏の潔いギブアップ
- ▼直木賞選評総括●選考委員の世代とかで重心や焦点が決まるのかもしれない
嶋津輝『カフェーの帰り道』そうか、身体性と心情が結びつく作家なのか
マライ・メントライン(以下、マライ) 京極夏彦氏の“なんでもないことの凄さをなんでもない形で作品化するというのはかなり難易度が高いのだが、本作はそこを素直に乗り越えている”という言葉に尽きるような気がします。基本的には前回候補になったとき(参照/第170回直木賞受賞予想)の「こういうベクトルの作品の受賞もありでしょう!」という見立てがついに叶ったことをめぐる解説みたいな講評が多かった印象です。
杉江松恋(以下、杉江) “一昨年第百七十回選評において個人的に指摘させていただいた問題点が、本作にはほとんど見当たらなかった”(浅田)。やっぱり選評で復習をするのは大事なんですねえ。“戦前のカフェーのありようなど道具立てには疑問を覚えるところもあるが、一方でたとえばファッションを描く筆は瑞々しく、作中で提案される着こなしや髪形を想像しては、確かにその方がすてきに思えることに微笑んだ”(米澤)。ディテールについての意見はだいたいこのように、かなり高評価でしたね。神は細部に宿るといいますが、ありありと目に浮かぶように書くということは大事なんだと改めて思いました。「道具立てには疑問を覚えるところもある」の部分が気になるけど、どこらへんだったのかちょっとわかりませんでした。
マライ そこはそもそも私のような一般読者では検証不可能っす。
杉江 “嶋津さんの作品では、人の心模様と身体性との関わりがお話の土台に存在していることが多いと思いますが、この連作では、「カフェー西行」の女性たちが身につける銘仙の着物、エプロン、前掛け、シンプルなワンピースなどのファッションがポイントになっていると感じました”という宮部みゆきさんの、心模様と身体性との関わり、という指摘はさすがだと思います。ちなみに、嶋津さんが今準備しているはずの最新作は、足を怪我して引退したアスリートが実家の相撲部屋を継ぐ話です。そうか、身体性と心情が結びつく作家なのか、と感心。
マライ うーむ、興味深い!
杉江 あと、しっかり書けているのにあっさりしている点も評価されています。“書きすぎず、妙なおかしみがあり、哀切があり、女たちには存在感がある”“谷中、千駄木、上野の土地も小説のなかで生きている”(角田)、“途中から読者は登場人物の息子の安否を、深く気にかけるようになるのだが、物語はそれにさりげなく答えている。これがあんばいと品のよさになっていくのである”(林)。「書きすぎず」「あんばいのよさ」というキーワードに、プロがプロを高評価している感じがよく出ていますね。
マライ 「まったりとしてそれでいてしつこくない」という、『美味しんぼ』のような。
杉江 角田さんと林さんという、エンタメ文体の基本みたいな作家にこう言わせるんだからたいしたものですよ。しかも“時代の限界の中で、人が懸命に生きるとはどういうことか、という普遍的なテーマをうまく描いている”(桐野)とテーマ性も認められているわけですからね。
マライ 前回候補作『襷がけの二人』(文藝春秋)のみごとな正常進化版というか、もともと私も漠然と感じていたことがよってたかって見事に言語化されている感、さすがです。
杉江 本当にそうですね。具体的な表現で絶賛するというのはさすがの言語感覚だと思いました。予想対談で嶋津輝は「令和の向田邦子」と言ったのはあながち間違っていない気がしてきましたよ。
住田祐『白鷺立つ』「スポーツ小説みたい」という指摘多数
マライ 宮部みゆき氏をはじめ「これ、スポーツ小説っぽいよね」という指摘が複数あったのが興味深いです。より厳密にいえばスポ根&葛藤系というか。
杉江 そうそう。スポーツ小説みたい、と書いている評が複数あるんですよね。よほど議論の中で目立った意見だったんだと思います。それに対して桐野夏生さんが“選考会では、比叡山なのに宗教的ではない、という批判もあったが、この物語は、閉鎖的な空間の中でおのれの存在をどう証明するかという、極めて下世話、いや、根源的な「我」の極限を描いているのだから、それは的外れというものではないだろうか”“文章は簡潔で強く、恃照と戒閻という二人の僧の人物造型も際立っている”と真っ向から批判を受けている。そのご意見はわかるんですけど、桐野さんのおっしゃっていることは「スポーツ小説みたい」であることを否定するものではなくて、スポーツ小説でも成り立つんですよね。では、普遍的な題材だから宗教色はなくてもいいのか、という問いは、歴史小説の場合どうしても「その題材じゃなくてもいいじゃないか」という反論を招きます。だからどっちが正しいということでもないと思う。
マライ ニッチなジャンルに踏み込むことのリスクみたいなものですか。まあ、ナチものとかで考えると、私としてもわからなくもない、「その題材じゃなくてもいいじゃないか」問題。
杉江 前々回(172回)『虚の伽藍』(月村了衛/新潮社)が宗教団体という題材を描いて、主人公が狂気を発していくところは評価するものの、その狂気に宗教者ならではの要素がない、と京極さんが言っていたじゃないですか(参照/第172回選評を読んで徹底対談)。それと通じる話なんだと思うんです。『虚の伽藍』ならではの宗教的狂気、『白鷺立つ』ならではの比叡山を書いてこそ作品の個性ではないか、という。
マライ なるほど。論理的にはわかるんですが、個人的にはあれで充分でしょーと感じてしまいました!(笑)。そんな私もナチものコンテンツとかだと別の貌を見せるのだ!
杉江 関心領域というのはそういうものかもしれません。
マライ 京極夏彦氏の“宗教性を排除し全てを個人の情念に回収する決着では、題名との齟齬が生じてしまうように感じる”はそう考えるとやはり鋭い指摘ですね。白鷺は聖性を象徴するモチーフであり、あの結末の主人公の判断に「聖性への昇華」めいたものがあったといえるのかという問題。「全てを個人の情念に回収する結着」という点は、言われてみるとなるほどと感じます。また、辻村深月氏の“ラストが近づくにつれ、恃照の独白による語りが多くなり、読者が読み取るより先に登場人物や地の文が語ってしまうのがややもったいない”というのは確かに言えてて唸ります。
杉江 おっしゃるとおり。個人的には宗教うんぬんのことよりも、人間の描き方が未熟であるという評が厳しいと思いました。角田光代さんの“しかしアングルがひとつしかない印象を受けた”というのは、恃照の戒閻に対する態度が常に同じことを言っているわけです。三浦しをんさんの“反応が人工的すぎる”というのも。新人でこれだけ書けたらたいしたものですけどね。
マライ 「でも死ぬまでアングルひとつだけの人って現実にいるし」とかここで言っちゃダメなんでしょうね。
杉江 現実にいても小説に書いたらそれはつまらない、書く意味がない、という批判を受けちゃうんでしょうね。
マライ あぁ、なるほど。そんなんじゃお金を出す意味がない、という話でもありますね。その他の意見では米澤穂信氏の、読み方によって作品の深みの評価が変わってしまうという指摘とか、三浦しをん氏が物語舞台の全体イメージの乏しさについて言及しているのが印象深い。確かにディテールとか空気感についての描写は多いのだけど、どういう「箱」に登場人物たちが居てそこがどんな風に蠢いているのかという描写のあるなしで印象は相当変わるのかも。作者的には自分の頭の中にあるからつい「表現省略」になってしまうのかもしれない。
杉江 三浦さんの「箱庭みたい」という批判は言い得て妙だと思いました。
マライ 林真理子氏の“これだけつまらない話を、よくこれだけ面白く書けた、と選考会で発言したが、これは私の最大級の誉め言葉と受け取っていただきたい”という表現のフリーダム感がすごかったです。
杉江 林さんの、“これだけつまらない話を、よくこれだけ面白く書けた”“これはひとえに筆者の文章力であろう。端整にして、とぎすまされている”という評は、本が出る前に文藝春秋の複数の編集者から同じような感想を聞いていました。それだけ新人として期待されていたということですよね。つまらなそうな題材からもすごいものを書ける、というのはたいした才能だと思います。これだけのデビュー作が書けるんだから、絶対大きく成長する作家だと思いますね。
マライ それはおもいっきり同感です。
杉江 まあ、今回は顔見世興行で、次回に期待というところでしょうか。
マライ 顔見世興行のわりに凄い盛り上がり!
大門剛明『神都の証人』ジャンルの下駄をはかせてくれない選考
マライ やはり最後の「令和パート」が議論になったっぽいですね。あと「全体が重厚なのに細かいとこが妙に安直では?」という指摘が複数あるのがつらい。米澤穂信氏が「法律的思考」の展開という面をポジティブに捉えているのが、奥行きのあるいい言及だなと思いました。
杉江 米澤さんがああやって評価しているのはよかったですね。あと、宮部さんの“私がいちばん素晴らしいと思ったのは、大門さんが作中に「わかりやすい敵としての真犯人」を登場させなかったことです”という評もいい。わかりやすい敵を置かないことで、現実と切り結ぶことができる土台が小説に出来ましたね。そのへんが、結末でエンタメとしての形も守っているけど問題提起もちゃんとしていて偉い、という米澤さんの評価と通じると思いました。それにしても本当にみんなに「後半グダグダ」って言われてますね。芥川賞選評の、「時の家」の最初がだるい、というのと双璧です。
マライ もっと率直にいえば「後半、特にラスト近辺が、普通のジャンルミステリーっぽくなってしまった」感に対する不満かもしれません。
杉江 私は別の点に不満があって、次の展開に行く伝手となる証人とか証拠が向こうから出て来てくれる展開が多すぎだと思うんです。そこはご都合主義と言われても仕方ない。だから、オチはあれでいいんですけど、ミステリーとしてはやや脆弱なんですよ。
マライ ああ、それは正直あった。流れ的に同じパターンの繰り返し的なというか。
杉江 “国家対個人という大問題に、これほど真面目にそして直球で挑んでいる作品はそうはない”“だが、死体から動かぬ証拠を取るところや、簡単に司法試験に受かる点など、その可否について詳しく読みたいところをスルーされた感があるのは残念だ”(桐野)という桐野さんの意見もそうだと思うんです。スルーしちゃ駄目なところがスルーされているために、リアリズムの力が低下していることは否めない。現実と切り結ぶ上で、そこは欠点ですよね。
マライ 「スルーしちゃ駄目なところがスルー」これは太字で記載しましょう。
杉江 結末はリアリズムに寄せちゃうことはできたかもしれないんですよね。でも米澤さんが言われるように、エンタメを求める読者にそれは受け入れられないかもしれず、難しいところです。
マライ 私みたいな、ジャンル作法を知らないフワフワした読者にとっては特にマイナスかもしれません。
杉江 そして直木賞の選考は、ジャンルの下駄をはかせてくれないですよね。
マライ 良くも悪くも、そうですね。ある意味公平といえるかもしれないけど。
杉江 同感です。だって選考委員のうち推理作家があんなにたくさんいるわけなのに、ジャンル加点はしていないわけですから。
マライ 実はむしろ偉いというべきなのであった!
葉真中顕『家族』現実の事件からあまり踏み出してないという指摘
杉江 『家族』ですね。宮部みゆきさんの選評によれば、この作品が最初に落ちたようです。
マライ 推していたのに残念です! 京極夏彦氏が、本作の技巧はむしろ「恐怖を矮小化する」のではないか、ということを述べているのが興味深い。サイコホラー的な展開に心霊要素を加えると、場合によって興醒めになりかねないということかもしれません。その点については、辻村深月氏や角田光代氏がやや踏み込んだ形で述べてますけど。あと、否定的な言及ながら浅田次郎氏の“もしや作家自身も、瑠璃子という怪物に乗っ取られたのではないか、などと考えた”という表現が、なかなかポジティブな味があって良かったです。林真理子氏の“しかしグロテスクを超えて迫ってくるものがなかった”は、うわぁ厳しいなぁ! という感じで。現実の事件からあんまし踏み出してないだろ、という指摘が目立ったのも印象的です。
杉江 “冒頭の土地の持つ怨念と、終盤の幽霊的な存在は、ないほうが小説として俄然強くなったと思う”(角田)という意見は出るだろうな、と思いました。ただ、あの幽霊は、視点を遍在させるという効果があったことは確かなので、冒頭の土地に関する云々と切り離してあげたほうがいいかと思います。多視点の小説だから、それを拡張していくことで、世界全体を小説界の中に収めてしまうという狙いがあったように思うんですよね。ただ、冒頭の記述は確かに筆が滑っていると思います。あれがあると実話雑誌の記事っぽくなりますよね。
マライ ですよぉ! 心霊ホラー好きとしてはあれがむしろ刺さったのです!(笑)。
杉江 “拝読し終えて考えると、「疑似家族に勝利した血縁家族が、また疑似家族を作って、暴力と飯で支配する」という展開になっており、それは掘り下げではなく、構造を明らかにしたということではと思えた”“個人的には、たとえば瑠璃子がどういう来し方を歩み、なにを考えて疑似家族を形成しつづけたのかを、深くじっくり読みたかった気がした。瑠璃子が作るご飯が総じて甘い味というのは、とても怖くてリアリティがある”という三浦しをんさんの意見に私は同意します。この「構造を見せて終わり」という意見は、結構厳しいものだと思うのです。同様の意見は多くて、“実際の事件へ著者が付け加えた部分に首を傾げることが多い”“フィクションでなければ書けないものが那辺にあるか証明しなければならない、難しい挑戦だったと思う”(米澤)、“これだけの文章力と構成力を駆使して、現実の事件のなかの何を描きたかったのか、それが最後まで伝わってきませんでした。参考文献としてあげられている事件のルポルタージュ、ノンフィクション作品とは異なる「何か」が見つからなかった”(宮部)、”家族とは何か、という重要な言葉が多用され過ぎているとも感じた。小説の果実を焦っていたのではないか”(林)、”「家族」という概念が、その構成員を縛るものならば、もっとそこを掘り下げてもいいように思った”(桐野)と、だいたい同じこと言われているんですよね。
マライ 瑠璃子の内面描写が出てこず、それを周囲から浮き彫りにもしない、最後まで「異界の者」扱いだったのが裏目に出た感じでしょうか?
杉江 内面描写はなくてもいいと思うんです。それゆえの不気味さはあるはずなので。“瑠璃子が作るご飯が総じて甘い味というのは、とても怖くてリアリティがある”(三浦)というように、外形描写しかしないことで出せる不気味さもあるわけですよ。宮部みゆきさんが佐木隆三『復讐するは我にあり』(講談社など)みたいかと思ったら違った、と書いているのが示唆的でした。『復讐』は、連続殺人犯の男を徹底的に理解不能な存在として書いて、その心情を代弁することは誰にもできない(だから神以外には裁けない)と結論するんです。そこまで突き抜けて「理解不能な存在がいる」という書き方をすることもできるはずです。ただ、この小説の場合は、理解不能な事件をモデルにしているわけなので「理解できません」という結論に持っていくと、じゃあなんでその題材を選んだんだと聞かれてしまう。そういう小説の構造ゆえの落とし穴にはまった感があります。
マライ ここは解釈の違いが世間に蔓延していて難しいとこかなと思います。たとえばサイコパス犯罪について、「サイコパス犯罪」という名で人口に膾炙しているから「理解可能」扱いになっている、と思い込んでる人もいるわけです。そういうタイプの人向けには本作のアプローチは有効かもしれないと思ったりするのです。でも確かに絶対的な話ではないし、難しいですね。
杉江 私は、漠然とした恐怖を醸し出すというやり方はアリだと思うので、恐怖に特化して読んだ人を不安にする小説としては評価していいと思うんです。ただ直木賞という舞台だと、そういう純粋恐怖の小説は不利なのかもしれませんね。
マライ そう言われると納得せざるを得ない……。
渡辺優『女王様の電話番』浅田次郎氏の潔いギブアップ
マライ 辻村深月氏が述べている、アセクシャルがベースだけどもっと普遍的な人間のストレス問題に踏み込んだ内容というのはまさに同感で、こういう言及をしてくれると作者の励みにもなるだろうなと感じました。あと京極夏彦氏の本作への言及には、小説の面白さコンセプト自体の再定義を期待したい、的な内容があってそれ自体が興味深いです。
杉江 こういう題材の作品だと注目したくなるのが浅田次郎さんですが、“小説とは何か文学とは何かという既成の枠の中には収まらぬ作品である。よって既成作家の私が批評しできる小説ではあるまい”と、潔くギブアップしているのがいいなと思いました。
マライ 浅田先生の美徳技として定着した感もあり(笑)。でもたしかにそういう現代心理の空気感に満ちた作品でもあります。
杉江 “視点人物は迷うし学習もするが、成長はしない。謎は解けるが結論は出ない。それなりのイベントはあるものの主人公を取り巻く環境が劇的に変化することはなく、周囲の理解を得られることもない。それまで同様の日常を起伏なく過ごしていくだけなのである”という京極夏彦さんの意見は、“やっと探しあてたマッサージ嬢との間いに何のケミストリーも起こすことが出来ない。主人公の人生が、うまく肯定も否定もされなかったのは惜しかった”という林真理子さんの評の正反対ですよね。
マライ そうそうそう。
杉江 他のジャンル小説っぽく擬態しているけど、実はそうではなくて何も起きない小説なんだ、という読みがさすが京極さんだと思いました。何も起きないし成長もしない小説なんだよ、というのは本当に鋭いなと。
マライ 何も起きないし成長もしないんだけど、何かが発生して変化は起きる。だが誰も何も保証しない、みたいな。
杉江 何も起きない、変わらない小説って現代に求められている気がします。変わらなきゃ、成長しなくちゃ、という焦りを言い立てる物語は多すぎますよ。なぜ無理して変わる必要があるのか、私は私でなぜいけないのか、という基本的なところに立ち戻った問いの小説ですよね。
マライ 個人的にはそれは、説話めいたものからの脱却のニーズという気がするのです。Z世代の頭いい人と話してるとそういう空気感があります。
杉江 “まず分類があって、そのどれかに私たちがあてはまるわけではないという当たり前のことをしずかに伝えてくれるような小説だと思った”と角田光代さんが書かれているように、自分をどこかに当てはめようとするものに対しての反論と思って読むと、この小説が心に響くわけがわかると思うのです。
マライ アセクシャルという触媒は、実際、このテーマだとかなり強力です。
杉江 変わる/変わらないではなくて、メーターの針がゼロを指しているわけですよね。だから安易な成長物語をあらかじめ拒否するところから話が始まっているともいえます。ただ“風俗店の客に容易に会えることや、死んだ客の家に忍び込むシーンなど、主人公の行動や思考に、いまひとつ納得できない個所がある。都合のよい展開と思われてしまうのはどうか”(桐野)という指摘はごもっとも。
マライ そこは意外と『神都の証人』をめぐる議論に近かったり。
杉江 そうですね。作者に都合のいい物語運び、は直木賞ではかなり減点対象になるということかと。私はこの減点部分がなければ全面的に京極さんに賛成で、受賞してもよかった、と思いました。残念ではありますが、納得はしています。
マライ 作法も重要ですね。
杉江 あ、あと言及し忘れていましたが、全篇に漂うユーモアのセンスは大事だと思います。言葉と台詞のセンスがいいですよね。“随所で噴きだしつつ(「カバディ」みたいなセックス)、「そうだよなあ」とうなずくほかない内省が多々あり(両親や友だちや飼い猫とはセックスしないのに、なぜ同じように大切な異性とはセックスするのが当然とされるのか)、自身の性についても考えずにいられない”“美織さんのセリフは、現実社会の問題点を衝き、セックスワーカーとして生きてきた美織さんのこれまでを想像させるもので、鋭い批評性(主人公への批判ではない)がこめられており、本作の多面性と奥行きを感じさせる”(三浦)。クスリとさせる表現あっての批評性ということで、ちゃんとエンタメしていると思いました。
マライ これも重要ですね。ユーモアとウィットが自然に発揮される作家って超ナイスです。
杉江 まったく同感で、渡辺さんはもうひと化けしますよ。今後の期待株であることは間違いないと思います。
マライ 同感です。石田夏穂氏の「我が友、スミス」(集英社/166回芥川賞候補作)とか、ああいうユーモアのある作家の言霊の輝きはちょっと凄い。人を選ぶ可能性もあるけど(笑)、私は好き。
杉江 三浦さんが褒めているのはたぶん、自分に似たところを感じたんだと思うんですよね。選考委員の中ではたぶんいちばん資質が近い。だからきっと渡辺さんも売れます。
マライ 売れてほしい!
直木賞選評総括●選考委員の世代とかで重心や焦点が決まるのかもしれない
マライ 辻村深月氏が書いているように、選考会ではしょっぱなから『カフェーの帰り道』一強確定の雰囲気だったようで、逆に『カフェーの帰り道』をめぐる選評は大体「誠実でバランスが良くて書き方と空気感が良いよね」的な感じになっていて、特にこちらからも追加で何も言うことは無いのだけど、こうしてみると『白鷺立つ』をめぐって妙に盛り上がった印象があります。でも実は『女王様の電話番』のほうが内面的論点はいろいろあったのかもしれない。そのへんは選考委員の世代とかで重心や焦点が決まるのかもしれない。興味深いです。
杉江 最年長の浅田次郎さんは潔く匙を投げましたけど、以降の直木賞を占う意味で、実は『女王様の電話番』は重要な作品だったのかもしれないですね。こういう作品を直木賞がどう読んでいくか、注目したいと思います。それにしても選評対談は、受賞作があるとやはり気持ちが弾みますね。次回も受賞作が出ますように。































