第175回芥川賞受賞予想「全作、タイトルが良い」とマライは「ゾンビ回収婦」「丹心」を推す。杉江も「ゾンビ」推しだが受賞予想は「アンチ・グッドモーニング」

長かった梅雨が終わり、夏本番の暑さが到来すると同時に、またもこの日がやってまいりました。来る7月15日に東京・新喜楽で行われる第175回芥川・直木賞について、今回も〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mがすべての候補作を読んだ上で、受賞作予想に挑みます。まずは芥川賞。行きます! 直木賞編はコチラ

■第175回芥川龍之介賞候補作
小砂川チト「ゾンビ回収婦」(『群像』5月号)3回目
鈴木涼美「悪い血」(『文學界』6月号)3回目
仁科斂「丹心」(『新潮』4月号)初
村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」(『文學界』5月号)初
八木詠美「アンチ・グッドモーニング」(『文藝』春季号)初
選考委員/小川洋子・奥泉光・川上弘美・川上未映子・島田雅彦・平野啓一郎・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一

目次
▼小砂川チト「ゾンビ回収婦」地獄における居心地のよさってこれか!
▼鈴木涼美「悪い血」女性から見た新しい妊娠小説という評価も
▼仁科斂「丹心」建築に関心度が高いとおもしろさも増す
▼村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」関西言葉のリズムはとてもいい
▼八木詠美「アンチ・グッドモーニング」押井守ファンは全員読んだほうがいい
▼芥川賞候補作総括●多義的な解釈が可能で、いかに読むかを問われているなと感じた

小砂川チト「ゾンビ回収婦」地獄における居心地のよさってこれか!

杉江松恋(以下、杉江) ではでは、今回も頑張っていきましょう。まずはそれぞれのお薦めから。私の受賞予想は「アンチ・グッドモーニング」で、イチオシは「ゾンビ回収婦」です。
マライ・メントライン(以下、マライ) よろしくお願いします。予想は「ゾンビ回収婦」、オシは「ゾンビ回収婦」「丹心」です。
杉江 お、ゾンビに人気が。まずはそこから行きますか。

 

ゾンビ回収婦
『ゾンビ回収婦』
小砂川 チト / 講談社 / 1,980円(税込)
あらすじ
現実世界で失職した〈わたし〉はVRゲーム内で働き始める。破壊されたゾンビを回収するNPCに成り代わったのだ。一人だけ違う動きをするゾンビが気になって仕方なくなる。
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マライ AIで構築されたVRゲームの空間を舞台に、承認欲求とアイデンティティの深みが語られる話です。人類補完計画じみた世界救済モチーフもほどよく隠し味にひそんでいたりして、いろいろと素晴らしい。承認欲求というものを突き詰める探究小説として、過去ベスト級に面白かったです。

杉江 お、そこまで評価しますか。

マライ 作風は安定のクセ強なマジックリアリズム系で、骨格としては前回(170回)の候補作『猿の戴冠式』(講談社)の正常進化版ぽい印象もあり、同作でボノボが果たした役割を今回はAIが担ったといえるかもしれない観念的な試みが興味深い。F1ふうにいえば、「猿の戴冠式」のとき不安定だったマシンセッティングがいざバッチリ決まると、同系統のエンジンでこんなにも快走するのか! という印象です。前作では暴走気味だった結末までの展開も今回はいい感じで、独特のユーモア感覚もしっかり健在。承認欲求追究のパロディとしても読める気がするので、そのあたりで作者の意図を超えた好き嫌いは発生するかもしれません。しかしどちらにせよ傑作です。

杉江 AIに人間の表現が奪われていく、というところまでは誰でも書けるでしょうけど、ではそうやって表現する人間ってなんだろう、そもそも何かを表現するってなんだろう、という風に問いが昇華しており、創作そのものをテーマとする小説としても読むことができます。あとゲームの仮想世界が、自分の生きてきた主観世界よりもよほど主観的である、と主人公が感じるあたり。現実の世界が人間にとっていかに味気ないものかという表明にもなっていて、諷刺的な味わいもありました。

マライ それはありますね。現実空間が仮想感で飽和してきている問題という解釈も可能かも。

杉江 いちばんおもしろいのは、主人公がNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター。プレイヤーに操作されずに動く脇役)を乗っ取り、その役になりきってゲーム内に住み着くという設定だと思うんですけど、ここはどのくらい選考委員に評価されるんでしょうね。一方でゲームの作り手は、それぞれのゾンビに固有の名前としてのメッセージを載せて、世界に送り出している。そうやって希望を託しているにもかかわらず、プレイヤーに読み取られることはなく、ゾンビはすぐに破壊されてしまう。ゾンビとして振る舞うことを拒んでいるキャラクターだけが逆説的に「人間らしく」あることに成功する。あの流れもいいなと思いました。本作では主人公の本名も伏せられていて、ゲーム内で割り当てられた名前が都度変化する。アイデンティティの不確かさをそういう形で表現していますね。

マライ そうなんです。ある意味、ぼっち系オタクワールド主張の精髄を感じます。

杉江 私はSNSにはびこるゾンビアカウントの存在を連想しました。単一のメッセージに埋め尽くされるとき、本来あったはずの顔や意味が失われてしまう。また、ゾンビものってゾンビに包囲されて未来がなくなるところに絶望するものなのに、この小説の場合、ゾンビに埋もれていることが主人公にとっては安心の種になる。そういう設定の裏をかくような逆転が非常におもしろいと感じました。

マライ そうなんです。「地獄における居心地のよさってこれか!」的な逆説を感じさせて、それが効いている。

杉江 ゾンビはいわゆる「社畜」、組織のために非人間的に働かなければならない人のありようでもあります。主人公は現実世界でそこから零れ落ちたのに、仮想世界でもゲームマスターに気に入られるため、自ら奴隷的な労働に従事します。ここでも逆転が重要な意味を持っているわけです。

マライ 能動的・自発的奴隷の可能性と陥穽を一気に描いた感がありますね。読者によって押されるツボが違い、しかもそれが多角的・多重っぽいのがよいです。

 

鈴木涼美「悪い血」女性から見た新しい妊娠小説という評価も

悪い血
『悪い血』
鈴木 涼美 / 文藝春秋 / 1,870円(税込)
あらすじ
検査で採られた血液のサンプルを奪い返すため、〈私〉は新宿区の病院を目指す。過去の自分は無軌道に生きていた。悪い病に感染しているかもしれない。その証拠を隠滅するためだ。
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マライ 元ヤンキー系(といってもいいのか)で性産業を渡り歩くような生き方をしてきた女性が、高齢出産に直面する状況となり、そこで押し寄せる人生の逡巡を描く内容です。

杉江 ヤンキーというより街の子という感じだから、ブルセラ系中高生なのかな。

マライ 身体性と身体感覚の強調が作風上の特徴で、これは妊娠出産というストーリー要素との相乗効果が大きい。心理面に目を転じると「自責」と「他責」が曖昧に感じられる描写が印象的で、これは現代的心理を撃つひとつの重要ポイントかなと思います。内外にわたってやたらと制約の多い「お母さん」という窮屈な生き物に変貌してしまうことをめぐる女性ならではの葛藤が語られますが、もし変貌しないならしないで、本作の場合、基本、あぶく銭ベースのバブリーな男にぶら下がって生きるようなヴィジョンしか与えられない。そもそもその二択の提示でいいのか? という疑問が作中であまり強く語られていないように感じられるのがちょっと気になるところですが、杉江さん的にはいかがでしょうか。

杉江 主人公が妊娠という契機を迎えたために、乱行に満ちていた過去の記憶と直面せざるをえなくなるという話で、マライさんのおっしゃるようなバブリー男にぶら下がった生き方というのは、男の劣情を刺激して女の側に金を奪うという行為と読み替えるべきなんだと思うんです。当時としては、持たざる側である若年女性にとっての正当な経済行為ではあったんでしょうが、そうやって媚態と欺瞞によって性を売って金を得ることについて、語り手は逡巡を押し殺して生きている面があったのでしょう。妊娠による血液検査がその過去に直面する機会をいきなり開くために、彼女は動揺します。そこで、血液検査をなかったことにしようとして病院に向かうが、その行程が過去の体験を蘇らせることになります。感心したのは、現実と過去のつなぎめが非常にスムースなところでした。過去の自分に主人公の意識は向かっているので、現在の歩行の中でフラッシュバックが起きることにまったく無理がない。歩くペースで行われる過去への道行き、極小のロードノヴェルといいますか。

マライ 現実と過去のつなぎめが非常にスムース、という観点は納得です。

杉江 というのはですね、以前(168回)候補になった『グレイスレス』(合本で『ギフテッド/グレイスフレス』文春文庫)で、主人公がやたらと歌舞伎町の中をタクシー移動するのに違和感があったからなんですよ。場面と場面の間の移動が飛ばされちゃうので、書きたいところだけ書かれるのは生身の人間の表現としてどうなのか、と思っていたので、今回はかなり点が高くなりました。題材が性産業なので、そっちの扇情的な関心で語られそうですが、現在の時制の間に自分史の分割した破片を挟みこむことでその人の全体像を描くという技法に私は魅力を感じます。また、斎藤美奈子が『妊娠小説』(ちくま文庫)で指摘したように、従来の妊娠小説って、女性が男性から妊娠させられることで意思とは別に母親の役割を強制されてしまうという人生の中断、性の非対称性を書いたものが多かったと思うんです。本作はそうではなくて、主人公を妊娠させた父親は精子を提供しただけで、人格はほぼないんですよね。障害物に近い扱いです。その点、女性から見た新しい妊娠小説という評価もできると思います。

マライ そこまで読み解いてくれれば……ですね。一般的にはやはり「男社会に妊娠させられる」感をベースに読む人がかなり居そうな気もしますよ。

杉江 性産業で男性客を数える隠語に一本というのがあります。男性器の数でカウントしているわけで、男性の存在を金に換算する感覚です。そういう身も蓋もなさが出ている点も私は評価したいですね。

仁科斂「丹心」建築に関心度が高いとおもしろさも増す

丹心/まごころ
『丹心/まごころ』
仁科斂 / 新潮社 / 2,200円(税込)
あらすじ
中国・寧波で、建築放棄された建物が美術館にリノベーションされることになった。恩師である設計者の代理で現地を訪れたレンは、中国式に進められていく事業計画に翻弄される。
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マライ 日本の哲学的な建築学者が中国の「未完成のまま行き詰まった住宅開発計画」の換骨奪胎リノベーションを依頼される顛末記で、異様で面白い比較文化的小説です。いろんな意味でかなり好き嫌いが分かれそうな作品ですが、私は気に入りました。大きな特色は、中国人や中国社会の思考文脈を、日本人に理解しやすい道理に寄せず、原型を保ったまま直訳的に日本語で表現する意図を強く感じる点です。「ちょっと待て、なぜ君はそこで突然そういう挙に出るのかな!」的なアレコレですね。

杉江 現代中国の身も蓋もない現実が書かれているという以上の評価ポイントを、私は見つけられなかったんですよ。リアリズム小説としてはおもしろいと思うんです。たとえば、国家公務員が異常に強すぎる権力を持っているがゆえに、未完成の建築物が各地に林立して廃墟化している現実だとか、住民立ち退きを進める公務員のあまりに雑なやり方だとか、いちいち日本と違うので、そうなのかあ、と感心しながら読みました。

マライ 書かれた内容がどの程度リアルに感じられるかについては安田峰俊さんに聞いてみたい気もします。それとは別のところで言うと、建物の設計を担当することになる日本人建築学者が中国的思考や感性に対して日本(あるいは西側先進国)の道理で対抗するみたいな、ありがち展開ではないところがいいですね。小説の書き方としてもインパクト大な心理や行動、情景の描写に満ちていて飽きさせません。

杉江 たしかに、目に触れるものいちいちが新鮮でした。

マライ あと、中国絡みの生活やデザイン感覚の巨大な違和感の正体は何か、ということが中心的主題の一つになっていると思うのですよ。先日、プラモデル作りが趣味の私の夫が、中国の通販サイトで、廃墟ジオラマのキットを発見したんですよ。割とゴージャスな出来ではあるんですが、ボロボロになっているという設定で、漆喰塗りの壁があちこち剥がれて、下にあるレンガが見えている状態を再現しているんです。が、なんと、その漆喰の面とレンガの面が同一平面でツライチなんですね。いやこれ段差がないと物理的におかしいだろ(笑)。なんであちこち凝っているのにこうしちゃうのかなというのが中華オブジェクトあるあるな話で、我々はついついこれを「手抜きだ」「テキトーだ」と言いがちですが、本当の原因は何かを突き詰めて考えると「ある思考プロセスをスルーした形で事態を進行させる方が総合的には適切」みたいな斜め上じみた合理性が、その文脈での最適解として君臨してしまうのかもしれない。そういう可能性に思いを馳せるという選択肢が、この「丹心」という作品を読むと浮かんでくるのです。なるほど、こういう文学の効用もあるのか、という点で私は面白く読みました。

杉江 ああ、なるほど。そういう観点で読むと拡がりは確かにありますね。私が不思議だったのが、日本人の鹿野川教授に依頼されて現地に赴く、レンという事実上の主人公が強い立場になって、ご意見番のような立場でオブザーバー内に君臨することです。なんであんな強いのかがよくわからない。日本人の鹿野川を文化的摩擦の中に投げ込めばいいじゃん、とも思いました。

マライ レンって、そもそもどこの国の人なのかよくわからない。すべての文脈に対して冷笑的な視座を持つジョーカー的な存在なんですよ。それで日本対中国じみた空気感のバランスを取らせたのかな、と感じました。

杉江 もう一つ。鹿野川は恐妻家であることなどキャラクターがかなり冒頭で強調されているんですけど、それが活かされずに終わっているのも、もったいない気がします。あの人はやたらと磯崎新を意識するんですけど、たぶんそこは笑いどころですよね。私は彼が建築について考えるくだりがおもしろかったんですよ。だから建築についての関心度がもっと高い方が読むと、おもしろさも増すんだと思いました。

マライ ああ、そういえば私は建築+間取りマニアなのでした(笑)。

杉江 そうそう。九段理江『東京都同情塔』(170回受賞作/新潮文庫)の時もその話出ましたよね。

マライ ですです。あと前回の『時の家』(174回受賞作/鳥山まこと。講談社)もそう。

杉江 もっとも重視されるべき建築物の用途がどんどんすり替わっていく、建築物というモノではなくて、それをめぐるカネの動きがすべてである中国社会を端的な形で切り取った作品、と素直に読めばいいのかな。たぶん私の感度がそのへん低いのかと思います。

マライ 文章の構造論をある意味突き放した、物理的な建築論志向であるゆえに杉江さんとの相性があまりよくない作品、とは言えるかもしれませんね。

 

村司侑「ソリティアおじさんがいた頃」関西言葉のリズムはとてもいい

ソリティアおじさんがいた頃
『ソリティアおじさんがいた頃』
村司 侑 / 文藝春秋 / 1,870円(税込)
あらすじ
サボタージュばかりの仕事ぶりから付けられた「ソリティアおじさん」のあだなで彼を認識していた瑠奈は、通夜に出て死に向き合おうと決意する
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杉江 第131回文学界新人賞受賞、作者のデビュー作ですね。

マライ 窓際族になってから退職後に不慮の死を遂げた男性の葬儀近辺をめぐる人間模様を、もはやまるで若手とは言えないけど社内で相対的に若手っぽく扱われている女性社員の視点から眺めるお話です。「ソリティアおじさん」の67歳という年齢は、昔だったらフツーに老人カテゴリだと思うんですけど、今どきはどうなんでしょうね。相対的にみて初老だったりするのだろうか。

杉江 初老、なのかな。その年でまだ年金貰わない選択もあるわけで。これ、ソリティアおじさんとは何かというのが今の若い人にも伝わるんですかね。みんなソリティアやるのかなあ。スマホ世代はやらないのかなあ。この作品で評価するのは、ソリティアおじさんこと黒野田さんががなぜ仕事もせずに日がな一日コンピューターゲームを職場でやっているような人になってしまったのかを一切説明しないところです。何も説明しないで、ただ無為に時間が過ぎるのを待っていた人として描かれている。そこに主人公は、自分と同棲中の恋人との関係を重ね合わせます。恋人は元同僚なんですが、会社を辞めて、今は職探しもろくにせずに同棲している主人公の部屋で将棋に没頭している。小説の後半で主人公は「どうしようもないといってじっとしているのは、現状維持」なのか、とある決断に至りますが、そこまでの心理変化が、大阪北部あたりの言葉を使って緻密に描かれていきます。意識の流れを描いたという点では「悪い血」にも通じる面があって、そこは評価ポイントかと思います。

マライ そうですね。ただ、黒野田さんと主人公自身の文脈を交錯させることによって得られる相乗効果というのはちょっと弱い気がします。

杉江 合間に「知らんけど」と挟まる関西言葉のリズムはとてもいいと思うんです。文章はすごく好きなんだけど、純文学的な読み方をしているかどうか、ちょっと自分でも自信がないんですよ。備忘用のメモを見たら、「マドレーヌを食べるところの記述が『孤独のグルメ』の井之頭五郎みたいでいい、とか書いてあって。そうそう主人公が勤めているのは老舗の味噌舗が近代企業化した会社で、全般的に食べ物がおいしそうに書けてます。

マライ 確かに。でも今回の直木賞候補作で散見されるような凝った書き方ではない(笑)。

杉江 どんな人であっても死後に「ソリティアおじさん」という風に固有名を奪われて、死亡記事の一単位として扱われていいはずがない、という思いが書かれているのは大事だと思いましたね。「知ったひとが亡くなって、つらい、悲しいって」思っていても「ちょっと胸を痛めて、ちょっと悲しんで、そうしたらもうけろっとした顔で、儀礼のマナーはどうの、人間関係がどうので、もう本人を見ていない」と主人公は考えます。だからこそ行かなくてもいいと言われた通夜に彼女は足を運ぶんでしょうね。そうした固有の人格を尊重することの小説ではあります。また、主人公は居候状態になった恋人を否定するわけでもなくて、ただお互いに人生があるということをちゃんと見つめ直そうとしているように見えます。そういう意味では、他にできることがなくてじっとしているしかない人に対する優しい気持ちも見える作品で、私は好意的に読みました。

マライ ただしその問題提起は、人格の「埋没」への不安という逆説的文脈にて「ゾンビ回収婦」でより鋭く展開されていると思うのですよ、今回の候補作たちの中では。うーむ。

八木詠美「アンチ・グッドモーニング」押井守ファンは全員読んだほうがいい

アンチ・グッドモーニング
『アンチ・グッドモーニング』
八木 詠美 / 河出書房新社 / 1,870円(税込)
あらすじ
会社が買収されて働き方が根本から変わった〈わたし〉は不眠症に陥る。数々の療法を試すが改善は見られない。ある日リモートで受けていた研修で彼女は奇妙なことに気づいた。
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マライ どこまで夢オチで説明づけられるのかわからない一種の幻想小説で、現代社会で生じる過重ストレスに対する処方として『ファウスト』的メソッドが登場します。魂を切り売りすることで鈍感力とかが高まって、酸鼻な現実システム内における利己的な生存可能性がアップするわけですが、けっきょく契約の対象とされる魂とは何のメタファーなのか、という面が深掘りされないのが気になりました。魂を売るというのは、解決するのではなく問題自体をなかったことにするアクションはいかんよ、というアイディアが根底にあるように感じるのですが、結末にも焦点に曖昧さがあってモヤります。

杉江 私は、現実と夢の境界が見分けられなくなっていく過程を描いた、非常に押井守的な作品だと思って読みました。これ、押井守ファンは全員読んだほうがいいな。

マライ でっでも、押井守作品にしては「俺ドイツ」的な香りが希薄すぎます!(笑)。

杉江 いや、『紅い眼鏡』とか初期実写作品の匂いがぷんぷんしませんか。出冬は千葉繁にやってもらいたい。

マライ わかるんですけど、現実と夢の境界が見分けられなくなっていく展開は、「またかよ」という感じで恐縮ですけど、これも「ゾンビ回収婦」のほうが鮮やかで見事だと思うんです。つまり、押井守ファンである私自身が押井イズム的なものの上位概念を感じてそこに惹かれ始めているのかもしれない。

杉江 なるほど(笑)。魂の売り買いというのは「悪魔との契約」プロットに小説を載せるためのギミックに過ぎないんじゃないかと思うんです。主人公は、勤務している会社から、社員に健康的な生活を送らせるためという口実で日常を全面管理される権利を譲渡してしまうんですね。この会社は在宅勤務で社員に自由を与える代わりに、報告の義務と常に業務に対応しなければならないという制約を与えます。それって、おいしい話と引き換えに魂を売らせるという構造だと思うのです。物語の後半で魂の契約が浮上するというよりも、主人公がもともと魂を売らされていて、会社に隷属させられていたということが明らかにされるということじゃないかと思うんですよ。

マライ ただ、現在の労働環境中にいる読者の多くにとっては、魂を売らされる隷従関係が濃厚な空気感の中にいるのがデフォなので、改めて解き明かされるまでもない、という感覚的本音につながるのではないでしょうか。あと、主人公の会社の経営が変わって、コンサルめいたクソイズムが導入されてシステムの地獄化が正当化される展開は本作の重要ポイントだと思うんですけど、最近、大学生の知人に聞いた限りでは、就職観とか、現実はこの作品よりもさらにひどいことになっていると感じます。ゆえに、社会の現実はもっとヤバいとこまで来てるし、AI化でもっとすごくなるよ、とか思ってしまうのですよ。

杉江 それは確かに。ただ、現実はこの数年でどんどん悪化しているでしょうから、ある程度遅れてでもそうした隷属的雇用関係を書き留めておいたことは評価されるんじゃないでしょうか。あと、この主人公は自分がそうやって隷属させられていることを意識の隅においやって、対症療法的な手段で解決しようとしますけど、どれも根本的な解決にはならない。その目の逸らし方を指摘したこともにも意味があると思います。作中でチェシャ猫についての言及がありますが、全体としてはルイス・キャロル『不思議の国のアリス』ですよね。あれはアリスが目を覚まして終わりますが、こちらは眠りに落ちて終わる。不条理世界を巡るという構造はたぶん意識したんじゃないかと思います。

マライ それこそ押井守イズムの精髄ポイントかもしれません!

杉江 映像化された際のエンディングには「愛はブーメラン」をお願いしたいですね。言わずと知れた『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の主題歌。

芥川賞候補作総括●多義的な解釈が可能で、いかに読むかを問われているなと感じた

マライ 今回は全作、タイトルが良かったんですね。すべて「なんだか読んでみたい」感があって、まずそれが好感触でした。そして全作とも登場人物によるSNSコミュニケーション的「つながり」の駆使が展開の前提にあるのが時代性を感じさせます。もうテーマというより背景みたいなというか。あと、アイデンティティの変容とか埋没といった問題は、高齢化社会の深化と絡んで、ブームではなく固定的なテーマとしてしばらく居続けそうだな、と感じました。

杉江 今回の芥川賞は技巧が極端に押し出されたものがなく、作者の主題がはっきりとは明示されていないので探しながら小説内に分け入る読書が求められる候補作が多かったように思います。それだけに作品によっては多義的な解釈が可能で、いかに読むかを問われているなと感じました。いいですね、こういうの。こういう読書は楽しいです。

 

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