第175回直木賞受賞予想。マライ「『見えるか保己一』が一強すぎてヤバい」杉江「大本命ですね。私は『けんぐゎい』も推します」。話題の若林正恭『青天』をふたりはどう読んだか

梅雨の終了、夏本番と共に暑い暑い季節に突入しましたよ。来る7月15日に東京・新喜楽で行われる第175回芥川・直木賞について、今回も〈職業はドイツ人〉マライ・メントラインと〈書評から浪曲まで〉杉江松恋のチームM&Mがすべての候補作を読んだ上で、受賞作予想に挑みます。もはや季語として数えられてもいいほどの夏の定例行事、こちらは直木賞です。さあ、行くぞ! 芥川賞編はコチラ

■第175回直木三十五賞候補作
朝倉かすみ『けんぐゎい』(光文社)3回目
蝉谷めぐ実『見えるか保己一』(KADOKAWA)初
凪良ゆう『多類婚姻譚』(講談社)2回目
原田ひ香『#台所のあるところ』(文藝春秋)初
若林正恭『青天』(文藝春秋)初
選考委員
浅田次郎・角田光代・京極夏彦・桐野夏生・辻村深月・林真理子・三浦しをん・宮部みゆき・米澤穂信

目次
▼朝倉かすみ『けんぐゎい』安定した倫理観やジャンルからはみ出ることを恐れない
▼蝉谷めぐ実『見えるか保己一』単純な良い悪いではなく、それぞれに弱さがあるという書き方
▼凪良ゆう『多類婚姻譚』読者に否定されにくい仕掛けにした戦略的な結果か
▼原田ひ香『#台所のあるところ』一緒に考えた、を目的としている作品か
▼若林正恭『青天』冒頭の展開はなかなか惹きこまれた
▼直木賞候補作総括⚫︎コストパフォーマンスの対極にある作品を読んで欲しい

朝倉かすみ『けんぐゎい』安定した倫理観やジャンルからはみ出ることを恐れない

マライ・メントライン(以下、マライ) 予想も何も『見えるか保己一』があまりに一強すぎてヤバい。競馬でいえば衝撃の単勝オッズ1.1倍ぐらいの鉄板です。というか素晴らしい小説ですよ。読みながら思わずケイスケ・ホンダの口調で「スバぁらしい」と口走ってしまいそうな素晴らしさ。予想も推しも『見えるか保己一』です!

杉江松恋(以下、杉江) 私も予想は『見えるか保己一』。これは仕方ないでしょう。推しは『けんぐゎい』です。

マライ いいですねー。わかる気がします。

杉江 ではその『けんぐゎい』から行きますか。どうでもいいけど小文字のゎが変換しにくい(笑)。

けんぐゎい (文芸書・小説)
『けんぐゎい (文芸書・小説)』
朝倉 かすみ / 光文社 / 1,980円(税込)
あらすじ
天然痘に罹患した際の痕が肌に残るおふゆは、持ち前の聡明さを買われ、手習所で働き始める。その彼女を人の世における「圏外」の存在と嘲り、心を蹂躙しようとする者が現れた。
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マライ 異能をもつ産医として成長する女性を主人公とした時代小説です。江戸時代純日本設定であるにも関わらず、全体の思考フレームが妙に西洋魔術哲学じみた感触なのが興味深くて良い。

杉江 その通りで、時に時代考証から逸脱することも恐れず、マジカルな江戸を作っています。世界を構成する部品への意味の持たせ方がすごい。たとえば、主人公のふゆにずっと語りかけている「ウニコール」は「ユニコーン」でしょう。女性の貞節や純潔のシンボルで、しばしば西洋の美女画にも登場します。ところが表紙に書かれているのは中国の「白澤」です。賢帝の前に登場して予言を行う伝説獣。意図的にこの二つをミックスしているのだと思います。時代性に概念や用語が縛られていない。

マライ 寸止めというかスチームパンク手前感ぽい演出ですね。これは何気に新しいかもしれない。ジェンダー視点的には「いかなる理由や働きかけや脅しがあろうと、女は、産まされてはならぬのである。それと同じく、いかなる理由や働きかけや脅しがあろうと、産めないことがあってはならぬのである」という作中の言葉が集中的にピックアップされそうですが、もっと広い範囲・主題を網羅しています。個人的には、モノゴトの本質を過度に見抜いてパターン定義してしまう能力をめぐる葛藤と突破の話として読みました。作中しばしば、主人公は善悪取り交ぜて超越的な知的文脈に対峙させられます。なんか突然凄いスイッチが入ってしまった人の語りを聞かされる感じですね。特に宗三郎という微妙にラインハルト・ハイドリヒじみた悪の化身による語りは、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の大審問官を思わせてなかなか壮絶です。しかし、全体的に言葉の密度が高い箇所と低い箇所の継ぎ接ぎきれてない感じがちょっと気になります。あれをメリハリとしてプラス評価できるのか。日常パートに冗長さを感じてしまう読者もいるかなと思います。

杉江 構成としては頭が重たい。全体の60%は、主人公の幼少期~十代の話です。宗三郎というサディストに弄ばれて意に染まない妊娠をし、堕胎を強制されるところまでが長い。そこから急展開するので、第三部がやや密度不足に感じたほどです。かといって前半の大きな割合を占める、主人公ふゆの自分語りや日常描写を削ればいいかとなると、朝倉小説の魅力はこの語り文体にあるので、それは無理なんですよ。ゆえに全体の筋とは無関係に、おふゆが遅遅とした歩みでなるべき自分に到達するところまでの小説と読むべきだと感じました。他者に存在をないがしろにされた人が自分を取り戻す、かつ、周囲の大事な人にもそれを波及させる、という展開のために、長い長い語りの助走をしているんですね。ここがもしかすると低評価がつくところかもしれません。

マライ その構造はタイパ読書的に不利ですよ! と憎まれ口を言ってみる(笑)。

杉江 そういうタイパ主義者は倍速でどっかに行っちゃってください(笑)。ただ、前半で主人公がひどい目に逢わされるから、あそこで読むのが辛くなっちゃう人は出そうです。あと、ひどい目に逢った主人公が報復してすっきり、という話でもないですよね。

マライ そうなんです。でも安直な勧善懲悪図式に頼らない点はイケていると思います。

杉江 そういう、安定した倫理観やジャンルからはみ出ることを恐れずに朝倉さんは自身の小説を書こうとしていて、そこを私は高く評価しました。

マライ まったく同感です。

杉江 なのですが、同じ時代小説で『見えるか保己一』という怪物があるので、それと並べられちゃうと弱いかな、というのも正直なところ。宗三郎という気持ちの悪いキャラクターは、今回芥川・直木全作を通じてワーストに挙げてもいい。そういうキャラクターで、この世のオトコなるものを代表したということだけでも読んでいただく価値はある小説かと思いました。

マライ おのれのアイデンティティをシステム化させ切っているキモさがいいんですよ宗三郎!

杉江 朝倉さんはこれが初めての時代小説です。この先も書いていかれるかはわからないのですが、『けんぐゎい』は他で読んだことのない、実に個性的な作品になりました。それが直木賞候補になっただけでも私は非常に嬉しいです。受賞するともっと嬉しいけど。

 

蝉谷めぐ実『見えるか保己一』単純な良い悪いではなく、それぞれに弱さがあるという書き方

見えるか保己一
『見えるか保己一』
蝉谷 めぐ実 / KADOKAWA / 2,035円(税込)
あらすじ
視覚障害者の職業団体である当道座に属していた不器用な少年は、やがて国文学者として知られる存在になった。偉人と讃えられる塙保己一の胸の内に去来する、真の思いとは何か。
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マライ いやこれは凄い。ぶっちぎりイチオシです。出だしあたりでは視覚障害者の立志伝のような時代小説かと思いきや、まったくそんなストレートな話ではない。人間の知覚や心理をめぐる深み豊かで鮮やかな信頼/不信ツイスト連打の仕掛けにより、善悪の人間的宿業の図式が浮上してゆく構成が素晴らしい。主人公の振る舞いが周囲の拡大解釈で勝手に聖人伝説化してしまうあたり、地味に『デトロイト・メタル・シティ』のクラウザーさんぽかったりするのもイイ! ならば映像化する場合、主人公は松山ケンイチなのか。あ、うん、実際確かに松山ケンイチぽいですねあの精神的な佇まい(笑)。

杉江 文庫化の際は若杉公徳装丁でいきますか。

マライ 額に「殺」とか描かないでほしい!(笑) とかいう冗句はさておいて。本作の最大の見どころは、主人公のハンディキャップとの闘いが、密かに別の巨大な疎外構造を現実世界に生んでしまう点でしょう。彼の人生行路は正しかったのか否か。そしてラストバトルは泣かせます。筒井康隆の「わが良き狼」を思い出させる無限の切なさと皮肉、恩讐、魂の咆哮がそこにある。直木賞とか関係なくみんな読んでほしい! もう山本周五郎賞はゲットしてるけど(笑)。

杉江 昔は山本賞を獲ると直木賞は駄目、というジンクスがありますが佐藤究『テスカトリポカ』(165回受賞作/角川文庫)あたりから変わりましたよね。まあ、ぶっちぎりでした。

マライ ですよー。読みやすさも特筆モノです。リズム感と言霊力と巧緻なバランス性。読者に流し読みを断じて許さず、深く、一気に読ませてしまう。なにやら真の噺家の語り口に通ずるものを感じずにいられません。総合的にみて、直木賞系では『テスカトリポカ』、米澤穂信『黒牢城』(166回受賞作/角川文庫)、小川哲『地図と拳』(168回受賞作/集英社文庫)らに続く圧巻の激推し作品ですね。真面目な話、こういう小説を高校の夏の課題図書とかにしてほしいです。いわゆる差別問題教育テキストにありがちな、よい子的教義の押し付けではなく、マジで深く考えさせる内容だし、そもそもSNSやショート動画やスマホゲーより断然オモシロいと真顔で言えますよ。登場人物のダークサイド内面が時代を越えて絶妙にネット民ぽかったりするし、今の社会を生きる上でもウルトラ上質な思考触媒です。というわけで学校の先生の皆様、どうぞよろしくお願いいたします!

杉江 蝉谷さん、最初は江戸の芝居小屋小説から始まったんですが、戯作文学を意識しすぎて、文体が読者を選ぶ側面がありました。今回そこであえて本拠地を離れて一般的な題材を選んだ。合わせて文章もマイナーチェンジしていて、格段にリーダビリティの高いものになっています。奇を衒わない文章でも読ませることができることを証明してみせました。塙保己一といえば「目明きとは不便なものよ」の逸話がいちばん有名なんですが(各自調査)、それを中心に組み立てられた偉人伝説、視覚障害者ゆえの不安の物語に逆転しているのがすごいですね。目の見えない保己一が晴眼者以上の仕事をするという成功譚と、目が見えないがための不幸、不安という現実を矛盾させずに融合させています。保己一の心中は後世の人間は察することしかできないわけですけど、そうであったかもしれないという人物像を創り上げたのは尊敬に値しますね。このへんは垣根涼介『極楽征夷大将軍』(169回受賞作/文春文庫)がやりかけてちょっとできなかったところです。あと、偉大な保己一だけじゃなくて卑小な人物もちゃんと書けているのがいい。単純な良い悪いじゃなくて、それぞれに弱さがあるという書き方なんですよね。人間の観方が非常に優しい。

マライ そうです。甘くない優しさ。実にいいのです。

杉江 もうこれが絶対に取る、と断言してしまいましょう。『テスカトリポカ』とか『地図と拳』のときと同じで、大本命だと思います。

マライ はい。これが直木賞を獲れなかったら宇宙の運行のほうが間違っているということでひとつ(笑)。

凪良ゆう『多類婚姻譚』読者に否定されにくい仕掛けにした戦略的な結果か

多類婚姻譚
『多類婚姻譚』
凪良 ゆう / 講談社 / 2,090円(税込)
あらすじ
華は、同居中の樹と結婚することを家族に伝えようと決意する。しかしその気持ちはなぜか重く——「Thank for your understanding」他5篇で描かれるさまざまな結婚の物語。
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マライ 縮小しながら激動する経済環境のもと、深化する格差や生活不安、価値観アップデートの息苦しさに包み込まれるいまどき的な人々に寄り添う連作短篇集です。ある心のベクトルに対し、否定見解が(自分の内面からも)全方位的にデフォで襲ってくる、そんな時代の屈折気味な真情の軌跡を描いた作品ともいえるでしょう。ネット民じみた情報消費感覚に目が向けられている点が同時候補作『#台所のあるところ』と類似していますが、あれよりも若めの、後期ロスジェネ・初期Z世代的実感を重心としているっぽい点が特色かもしれません。
「わかっている。わたし程度で貧しいなんて言っちゃいけない。だってなんとか満たされているように擬態して生きられてるんだから。本当の貧困って、もうそんな擬態すらできなくなることだ。でもわたしとそこを隔てる川はとても細くて、向こう岸にいる人たちがありありと見える。」(「Beautiful Dreamer」)という表現は本作の背景に澱むマインドの核心だと感じます。見事なロスジェネ真情暴露です。これに限らず心理面につながる情景・状況描写のキレが良い。ある作品で脇役として登場する人物が別の作品で主人公やキーマンになるスイッチングの技巧も鮮やか。また、飲食・料理シーンの風味描写の秀逸さもポイントですね。とはいえ、「暴く」と「刺さる」は別の話です。ここには暴露や告発の苦みはあっても「解決」や「突破」のカタルシスはない。完成された閉塞感の説明と、逃げ道の提示にとどまる。この作品で描かれる社会層が読者として本作に魅力を感じるかという点、著者や作り手側がそのあたりをどう認識しているのか、とても気になります。

杉江 おっしゃることはほぼ同意です。個々の短篇として読んだとき、感心する作品とそうではないものが私はありました。たとえば「Beautiful Dreamer」では主人公が、自分がどういうことを辛いと思っているか全部説明します。「Position Talk」にもそういう面があって、カギカッコの中でネットニュースに出て来るような時事的話題への言及が詰め込まれている。それはそのまま登場人物の心情を代弁するものではなくて、そういうことを口に出さざるをえないほどに追い詰められた状況を表しています。そういう意味では「Position Talk」はいいのですが、「Beautiful Dreamer」は生の情報を出し過ぎです。だからこそ読みやすいという側面はありますが、ちょっとわかりやすすぎないか、と私は考えるのです。

マライ 杉江さんが指摘した短篇ごとの出来のばらつきって私は、いろいろな読者に向けた書き分けのように感じたのです。それが効果的なのかどうかは別として。

杉江 たとえば「小鳥たち」はいいと思いました。寂れた街の書店がブックカフェとして再生し、街に帰ってきた中年の男女が恋愛未満の心の交流をする。二人とも結婚生活の失敗を体験している同士です。最後の「C'est la vie」はもっといい。仕事で男に利用されていることがわかっている女性が、すべてを承知した上で彼を支えようとするが、心の葛藤を押し隠すことまではさすがにできない。その顛末を描いた短篇で、理屈で割り切れない感情とはどういうものかが書かれている。この二篇は説明的じゃないんですよ。特に後者は、男性による女性の搾取という図式が書かれていますが、主人公はそうした現実を無視し続ける。彼女がどの程度そうした現実を許容しているのかは、最後までほぼ語られず、読者の想像するに任されます。マライさんが「ここには暴露や告発の苦みはあっても解決や突破のカタルシスはない。」とご指摘されたのはその通りだと思うのです。「C'est la vie」の結末も、支持/不支持は分かれると思いました。重くのしかかる現実の前には服従するしかない、という昏い世界観で生まれ育った世代には、もしかするとそういう弱い結末のほうが受け入れられるのではないかと。

マライ そうなんですよ。ご指摘の水準差も含めて、全方位的に読者に否定されにくい仕掛けにした戦略的な結果がこの短篇集であるような気がしなくもないです。

杉江 凪良さんはジャンル小説から一般向けの小説に転じられて、まだ本格的な短篇集はなかったんです。だから、この先出される短篇集は、もっともっといいものになりそうな気もします。本作は通過点として期待値を高めていけばいいんじゃないですかね。

原田ひ香『#台所のあるところ』一緒に考えた、を目的としている作品か

#台所のあるところ
『#台所のあるところ』
原田 ひ香 / 文藝春秋 / 1,980円(税込)
あらすじ
冷蔵庫が壊れたことで蘇ってくる過去の記憶、一口コンロしかない部屋で暮らす女性の心理など、台所の情景を中心に描かれた作品集で、意外なメタ構造も備わっている。
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マライ 『台所のあるところ』という作中作のテレビドラマ、そして登場人物たちの調理風景を共通触媒としながら、様々な立場の人々の現代的な生活心情に寄り添うタイプの小説です。登場人物の心理の「あるある感」が読者に刺さるかどうかが大きなポイントでしょう。気になったのは、作中作のテレビドラマについて登場人物たちが繰り出す解釈がみんな同列・同レベルなんですよ。中には、とんでもない誤解曲解や枝葉末節ウォッチだけど「それはそれでオモロイかも!」的な変化球があってもよかったのでは、と思ったり。 IHコンロはやっぱ邪道よね! とか。そしてそういう観点からなんだか議論が怪しい深みに進んじゃうみたいな(笑)。

杉江 視聴者のコメントがほぼ同じというのはその通りかもしれませんね。そんなに人口に膾炙するドラマって、今はないと思うんです。あ、『孤独のグルメ』があるか。でもあれは基本的に一話完結で、人間関係とかないからなあ。それはそうと、これは凪良さんとは真逆で、いつもの原田ひ香さんクォリティが発揮された作品なんですよね。原田さんは2008年デビューだからキャリアはかなり長いんですけど、2018年の『三千円の使い方』(中公文庫)という百万部を超えたベストセラーもあって読者からは強く支持されている作家なんですけど、直木賞とはこれまで縁がなかった。ようやく発見されたという一冊なんです。『三千円の使い方』というのは一口で言えば、世知辛い世の中でようやく掴んだ機会の切れ端をどう生かすのか、というお話です。とても大きな幸せを今から掴めるとは到底思えない。でも未来をまだ諦めたくない、という心情が作品からは伝わってくるんですよね。そこが支持を集めている理由だと思います。

マライ それって、格差社会で格差が固定化する「直前」の空気感、精神的ニーズみたいなものを感じますね。よく考えると、現象として地味に怖い話なのかもです。

杉江 『#台所のあるところ』は似た終わり方がする話が多いじゃないですか。いろいろあるけれども目の前にある現実は否定せずに受け入れなければいけない、というところに着地するんです。だから話のあらすじよりも、登場人物が物語の中でどのような描かれ方をするか、という点を味わう小説ではないかと思うんですね。たとえば「半殺し」では、主人公の女性が同棲している相手が極端なミニマリストで、食事にも関心がないからコンロなんて電気のものが一口でいいと言う。しかし主人公にはかつて、おばあちゃんに食べさせてもらった餅など、食べ物にまつわる過去の記憶というものがある。その両者を対比させること自体にたぶん意味があるんじゃないかと。だから「台所のあるところ」というドラマを巡って人々があれこれ言う場面が頻繁に入るのだと思います。ドラマの内容について議論するうちに、登場人物たちは比較対象としての自分の生活について考える。それを読んでいるわれわれもまた、考えることに参加することになります。そういった形で読者を参加させる。共感した、ではなくて、一緒に考えた、を目的としている作品なのではないかと。

マライ 「教えてやる」ではなく「一緒に考える」は、ネット民イズムが跋扈する現在の情報空間において、ジャーナリズムがとるべき道のひとつとしても注目されている概念ですね。やってみると、杉江さんも出演した「アベプラ」(7/5放送赤字540億円…クールジャパン機構はなぜ失敗?背景にある「専門性なき投資」と「翻訳人材不足」の壁)みたくなるのだけど(笑)。

杉江 あと構成でいうと、真ん中に一つだけ風合いの違う話が入っていますよね。「冷凍庫冷蔵庫合わせて五台」。奇妙な風習が残る島が舞台で、後を引く終わり方をします。あれを真ん中に挟むという構成はいいですね。異物感のあるものを挟むことによって読者の目を覚まさせるという狙いですよね。こういう技巧を使えるところが、さすが短篇小説の手練れだと思いました。

若林正恭『青天』冒頭の展開はなかなか惹きこまれた

青天
『青天』
若林 正恭 / 文藝春秋 / 1,980円(税込)
あらすじ
総大三高アメフト部三年生最後の大会出場を勝利で飾る。そのために行動を起こした中村昴は現実の壁の存在を思い知らされる。アメフトでしか得られない充実とはどんなものか。
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マライ 落ちこぼれ奮起系の高校アメフト青春ストーリーです。冒頭、強豪校の練習状況をスパイしに行ってあえなく捕まってしまい、おもっきしボコられた上で懐の深さを見せつけられ、すごすご退散する展開はなかなか惹きこまれます。秋大会の初戦の試合中に主人公が開眼する決定的な場面のヴィジョンは、サッカー漫画『GIANT KILLING』(ツジトモ、綱本 将也/講談社)で椿大介の才能がついに開花する「わぁ……見える見える……」のインパクトシーン(5巻46~47話)を思い出させるものがありますね。ただし本作、ある程度アメフトについての予備知識が無いと情景を想像しにくいかなという印象があります。

杉江 私、アメリカンフットボールって、川崎のぼる『フットボール鷹』で読んだ知識しかないですし、弟が日大商学部でアメフトやっていたんですけど試合を見たことが一度もないという無関心層なんですが、試合場面はいいと思いました。さすがにフォーメーションを使ってボールを進める競技、くらいの知識はあるので、今前に進んでいるのか、とか、敵がぶつかってくるのは攻撃なのか防御なのか、というのはぼんやりわかります。だから私のようなぼんやりとした知識しかない人間でもたぶん大丈夫。解像度が低くても、なんとなくわかればいいんですよ、なんとなく。

マライ おお、まったく意見が違う。

杉江 主人公が試合中にあれこれ考えるじゃないですか。その思考が身体を動かすのと同期しているところがたぶん読みどころなんでしょうね。アメフトよくわからないけど、川端裕人『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)あたりのスポーツ小説からの類推でそう思いました。

マライ 主人公が道を踏み外しかけてヤンキー路線に転びかけるトコで、パー券を買わされて仕方なく渋谷のクラブに入りますよね。そこでクラブDJの選曲センスに「メロコアやスカコアを流した後、唐突に2PacやWu-Tangが流れるからなんか気持ち悪い。曲の一貫性のなさがちゃんとこいつら全体を表していた」とか、クラブ初心者なのにいきなり大上段からコアな文句をつける謎のDJ海原雄山状態に入っちゃうあたり、キャラ表現的に面白かったので、ああいうのをもっと大胆に活かしてほしかったなという気もします。

杉江 そうですか。私は逆に、アメフト以外のくだりはあまり感心しなかったんですよ。ありきたりの青春小説が書いたものをなぞっているように感じられて、遅めの高校デビュー失敗、のくだりは無くても別によかったんじゃないかと思いました。要所要所で歌詞が引用されて主人公の心情がそこに重ね合わされるという手法も珍しいものではないですし。『青天』って、アメフトの試合で転がされて天を仰いでいる状態のことらしいんですけど、あそこで主人公が高校生ながら麻雀荘に入る場面があって、青天は青天でも、ここからはレート無制限の青天井ルールになってギャンブル小説になるんだったらいいのになあ、と思ったんですけど、そうはならなかったです。そういう破綻がないなら、ずっとアメフトのままでいいんじゃないかな、と。

マライ どこまでも意見は平行線ですなあ。

杉江 これ、日大二高アメフト部だった若林の実体験がかなり反映された小説だと思うんです。どんな人でも自分の人生を題材にすれば一つは小説を書けるといいますが、『青天』はそこまで飛びぬけた作品ではないので、これしか書けないのか他にも書けるのかがまだわからない。見極めてから候補にしても遅くなかったんじゃないかと思います。私はエッセイストとしての若林正恭は好きで最初の『社会人大学人見知り学部 卒業見込』(角川文庫)は書評もしています。文章自体はいいと思うので、作数を重ねていけばもっといいものを書いてくれそうな気はするんですよ。

マライ なるほど。となるとこれは選評が非常に楽しみなパターンということになりますね。果たして候補作としての『青天』を選考委員はどう読んだのか。

杉江 これは真剣に選評に学びたいと思います。

直木賞候補作総括⚫︎コストパフォーマンスの対極にある作品を読んで欲しい

マライ 「この人に面白い本を読ませると面白い所見を述べてくれそうだ」と感じさせる若い友人に限って読書習慣が無い! というケースが最近目立つようになってて残念だなと感じるのですが、たとえば今回の直木賞候補のラインナップをぶつけてみて、その人を読書世界に幾分でも寄せることが可能か? と言われると微妙ではあるよなぁ。決して今回のチョイスがダメとかそういう話ではなく、もっと深いところで言語化しにくい何かがあって、そのへんが最近気になります。でも今回、『見えるか保己一』には圧倒されました。若い読者層にもこの文芸構築的な良さは伝わってほしいなぁ。

杉江 『見えるか保己一』の最大の美点は、読まずに並べられた要素を見るだけだと、小説が持つ本来の価値はわからない点だと思います。ショート動画の切り出しにはもっとも不向きな作品というか、コストパフォーマンスという概念の対極にある作品だと思います。語りが魅力の半分以上を占める『けんぐゎい』もそう。ここ数年存在意義を問われることの多かった直木賞ですが、今回の候補作ではそれを示すことができたのではないかと思いました。

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    2023年9月13日更新
  25. 第169回直木賞受賞予想。杉江「消去法で永井紗耶子『木挽町のあだ討ち」」マライ「脳内で絶叫が谺するような超快作は無かったかも」
    2023年7月19日更新
  26. 第169回芥川賞受賞予想。マライ「市川沙央『ハンチバック』が凄すぎる、有り金全部!」杉江「乗代雄介『それは誠』と『ハンチバック』が同率」
    2023年7月19日更新