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第1回

■あらためてのプロローグ=そして世界に散らばる中国人と関係ないところでカフェ・ビエンチャンは営業を開始した

 世界中どこに行こうとも、中国人のいない場所はない。アイルランドのダブリン郊外に広がる住宅地でも、漢字の看板を掲げた小さなチャイニーズ・レストランを目にしたことがあるし、ポルトガルのリスボン旧市街の夜の盛り場を歩いたときば、中国への返還直前にマカオから移り住んだ数多くの広東人に出くわして驚かされたものだ。
 イタリアのフィレンツェでは、映画を見に行く途中、街を走るライト・トレインの乗換駅で中国娘たちの集団に出会ったこともある。どうやら洋服縫製工場への出稼ぎらしいとわかったのは後のことだ。
 中東にも中国人はいた。レバノンの首都ベイルート。内戦で瓦礫と化したビルがそこかしこに残るダウンタウンの片隅で、干からびた東洋人の爺さんが歩道に出した椅子に座って新聞を読みながら煙草を吸っているのをよく見ると、背にしていた店は、点心を売りにしているらしい広東料理屋だった。店の奥では何段にも重ねられた竹の蒸籠が湯気を上げていた。
 カルカッタの地下鉄では、スーツを着たビジネスマンらしき中国人二人組が話し込んでいるのを目にした。出張で来ていたのだろうか。それとも現地で働いていたのか。利に聡いという互いの国民性から中国人とインド人は反りが合わないというイメージがあったので、まさかカルカッタで中国人を目にするとは思ってもみなかったが、考えてみたら香港にはたくさんのインド人が働き暮らしているのだ。逆にインドに中国人がいたっておかしくはないということだろう。いや。香港のインド人は、大英帝国がインドと香港を植民地化していた名残ということか。まあ。どうでもいいや。とにかくカルカッタの地下鉄で、おれは中国人を見たのだ。
 世界に散らばる中国人が集う街として真っ先に思い浮かぶのは、何と言ってもチャイナタウンだろう。ニューヨークにもロンドンにもシドニーにもクアラルンプールにもバンコクにもホーチミンにも、そしてもちろん横浜にも神戸にもある。規模が小さいのを含めたら、それこそ世界中のありとあらゆる町に存在するに違いない。ちなみにニューヨークのチャイナタウンにある某チャイニーズ・レストランのメニューは中国語・英語・日本語の三種類あって、中国語と英語の料金表示は同じだけれど日本語のメニューは一割方高く表記されているというナメたものだった。レストランのウインドウに日本語メニューが貼ってあり、それを目にして入ったのだが、適当な中国語でウエイターに話しかけたところ中国語のメニューを持ってきたので発覚したのだ。こちらが日本人だとわかって、しまったという顔をしたウエイターの間抜け顔が忘れられない。十数年前のことだから現在はわからないけれど、中国人がしたたかというよりも単に日本人が甘いと思われていただけのことだろう。困ったものだ。
 中国の雲南地方と陸続きだけあって、ラオスにもたくさんの中国人が出入りし住み着いている。首都であるビエンチャンともなると当然ながらチャイナタウンだってある。街の中心部から車で五分ほどの場所。中国系ラオス人が経営している家電屋だの食料品店だのが入った、タラート・チン(=中国市場)と呼ばれる二階建円形ドーム型の建物を中心に、周辺地域は漢字の看板を掲げた中国系の小売店だらけだ。売っている製品は北部の国境から流れ込んできた中国製品ばかり。飛び交っている言葉は中国語オンリーという、まさにラオスに出現した“小中国”といった感じである。
 このタラート・チン周辺はたくさんの中華料理屋が密集した地域でもある。なかでも安い・うまい・ボリュームたっぷり、しかし店は汚いという中国の食堂の王道をいく店が何件かあって、そこの注文方法がとにかくユニークなのだ。薄汚れたガラスケースに入っている野菜を指さす。それだけなのである。そうすれば店のほうで勝手に料理して出してくれるのである。味付けは店が決めるまま。肉を加えるか加えないかも、店の考えるがまま。客の意向が入り込む余地など一切なし。鮨屋の“おまかせ”と似ていなくもない。四川あたりの訛りの強い中国語しか通じない店が多いだけに、とくに外国人客としては便利かつ面倒くさくなくていいのかもしれないが、しかし鮨と違って出てくる料理がどんなものなのか想像できないため、口にするまで不安がいっぱいだ。もっともそれほど手の込んだ料理を作ってくれるわけではなく、ほとんどが“炒”か“湯”にするくらいだから、これまでハズレたことはない。
 この“おまかせ中華食堂”の一軒に『重慶飯店』という店がある。店は例によって汚くて、国境から流れ込んできた中国人労働者が朝から晩まで大声で怒鳴りあいながら麻雀をしている、そんな店だ。そしてその店のオヤジがこれまたおかしなオヤジで、いつも上半身裸なのである。そのうえ顔も仕種も表情も、あのお笑い芸人“アホの坂田”そっくりときているから、日本人であるおれとしては行くたびに笑ってしまうのだ。笑われた当人はなぜ笑われたのかなど理解するはずもなく、ただこちらの笑いに付き合って笑い返すのだが、そうなるとますます“アホの坂田”化に拍車がかかって場は一挙に吉本である。
 そういえば以前、中国北部の街・瀋陽の駅前で“とんねるず”の木梨憲武そっくりの人間を見つけて思わず声をかけてしまいそうになったことがあるけれど、中国人は人口が多いだけに、同じ東洋人である日本人と顔かたちがそっくりな人間がごろごろ存在しているのかもしれない。いったいおれに似た中国人はいるのだろうか。そしていたとしたなら、その中国人はどこで何をしているのだろうか。もう一人の自分が違う場所で違う人生を歩むというパラレルワールド物語はSFの常道だが、世界のあちこちで出くわす中国人が誰かに似ていたりするのを目の当たりにすると、それはSF世界の話などではなく実際にある世界なのではと錯覚してしまうというものだ。
 もう一人の自分。
 もうひとつの人生。
 そう。おれはそれまでやってきたこととまったく脈略もなく、突然発心して、東南アジアの最貧国ラオスのビエンチャンにカフェを作ってしまった。
 店名は“カフェ・ビエンチャン”。そしてこれから書こうとしているのは、二〇〇五年八月二十七日にオープンしてからのドタバタである…。
 
 何? カフェ・ビエンチャンの話と世界中にいる中国人の話はどう繋がるのかって?
 ほとんど繋がりはねえよ。なんとなく書き出してみたら中国人の話になっただけ。“北京にも秋にも関係がないから『北京の秋』さ”とボリス・ビアンは自作小説の題名についてうそぶいていたし、小津安次郎だって“秋刀魚が出てこないから「秋刀魚の味」という題名にしました”などと、これまた自作映画の題名についてふざけたことを答えていたじゃないか。だからほとんど本題と関係のないプロローグがあってもいいの。辻褄の合うことばかりだったら人生つまらないというもんだ。
 まあとにかくそういうことで、ビエンチャンにカフェを作るという祭りは終わった。しかし何かが終われば何かが始まる。
 そう。新たな祭りが始まったのである。

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